こんにちは、周です。今回は医家・費伯雄の紹介です。
費伯雄(1800~1879年)は、字を晋郷と言い、江蘇省武進孟河鎮の人で、医家・費氏六代目の子孫にあたり、孟河費氏の中国医学思想を代表する人物であります。
費伯雄は幼い頃から学問を習い、詩文・琴・囲碁をよくしました。長ずるにおよんでは、医学の研鑽に励んで一家をなし、道光年間に、2度宮廷に応召され、皇太后の肺癰・道光皇帝の失音症を治癒しました。咸豊(1851~1861年)・同治(1862~1874年)年間には、江南一帯に彼の医名大振(有名となる)、遠方からの患者も大勢居ました。当時の孟河鎮は、医薬業が繁栄した小鎮(小さな町・地域)となっていました。
費伯雄は数十年の行医(医を就く)経験しました。臨床上「常病多くして奇病すくなし」と認識し、弁証・用薬上も「奇を呈して異を立てる」ことを潔しとせず、「醇正和緩」(純正で穏やか)であるべきことを説きました。このため、彼の処方の多くは穏やかで、実効を重視したものであり、「神奇を宿して平淡」と称賛されました。
残念ですが、彼が著した《医醇》書稿(計24巻)などは、咸豊年間にある戦火で燃やされました。太平天国戦乱の時期に、同治2年頃(1863年)《医醇謄義》(4巻)を完成させ、その中で難病を詳細に論じていて、特に虚労病の治療に優れ、近代における虚労病に対する名医とされています。その後、《医方論》(4巻)(1865年)を著しました。
彼の卓見は、中医学を発展させるには「執簡馭繁」(簡単なことは実行し、難しいことは巧く制御する)を守るべきであります。《清史稿》に、こう評価しています:「清末江南諸医、以伯雄最著」。その子孫(費繩甫・費賛臣)は、家学(父祖の医業)を継承して、名医の誉れ高かった人たちです。