こんにちは、周です。今回は「言出爲論、下筆成章」(言葉を発すれば論になり、筆をとれば文章を書くことができる)を紹介します。
そんな豪語したのは、曹操の三男・曹植(子建)であります。曹植は父と兄の曹丕とともに三国時代を代表する文学家の一人で、後世は彼に「天才詩人」という評価を与え、三曹(曹操、曹丕、曹植)を呼んでいます。曹植の代表作は《洛神賦》《白馬篇》《七哀詩》などがあります。
詩歌を愛した曹操が銅雀台というものを造り、そこに息子達を集め詩歌の会を開きました。息子達は命題に従い、文を創作して父に差し出しました。曹植が創った1篇を目にして、曹操の面色(顔色)が変わりました。その作品はあまりに名文でありましたので、曹操は疑いました。「これは誰に代作してもらったのか?」と曹植に問いました。「言出爲論、下筆成章」と曹植が答えました。
曹植は非常に聡慧(聡明、賢い)で、10歳で《詩経》《論語》や先秦両漢(前漢と後漢の併称)辞賦(古代文体の1種)といった古典・詩歌を暗記し、詩歌や作文の創作にも巧みでありました。また周囲に丁儀や楊修(
2015年6月22日 鷄肋の記事をご参照ください)らの当時一流の文人・学者が居ました。なお率直な性情を持ち主であり、詩歌を愛した父・曹操も曹植を皇太子に、と真剣に考えた時期もあったようであります。
父の在世中は順風満帆であった曹植も、父が死去し、兄の曹丕が帝位を継ぐと同時に人生の歯車が狂い始めます。丁儀らは粛清されました。兄は曹植に対しても「七歩詩」を迫って、加害しようとするなど、曹植の不遇が続きました。「七歩詩」の危機は自分が有していた才能で何とか切り抜けることができましたが、曹植は兄によって地方へ転々と左遷され、兄に睨まれ続けて生涯を閉じました。
附:七歩詩
煮豆持作羹
漉鼔以爲汁
萁在釜下燃
豆在釜中泣
本是同根生
相煎何太急