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武則天(則天武后)

こんにちは、周です。今回は武則天(則天武后)の話です。

武則天(624~705年)は、并州文水(今の山西省の太原市文水)人で、唐代初期の女性皇帝で、本名武曌です。中国の「牝鶏司晨」(pìn jī sī chén めんどりが時を告げる、〈喩〉女性が権力を握る、かかあ天下である)を代表する人物(漢の呂太后、唐の武則天、清の西太后)の一人であります。しかし、呂太后・西太后は母親(呂太后は息子の恵帝の母親である、西太后は同治帝の母親である)として権威を振ったのに対して、武則天は中国史上ただ一人女性皇帝となりました。政治は男性が行うものという中国社会で、女性が政治の表舞台に立つのは大変なことであり、武則天と呂太后・西太后との立場の差は十分に理解されなければなりません。在位期間(690~705)、国号を(武)周とし、聖神皇帝と呼ばれていましたが、死後の諡号(おくりな)は天后・大聖天后・則天皇后・則天順天皇后など、「牝鶏司晨」を嫌う中国為政者の心情が表われています。

彼女は美貌と才能に恵まれ、636年に太宗の宮中に居ました。太宗死後に出家していたが、652年頃に召され、高宗(太宗の息子)の昭儀(後宮の地位の一つである、皇后を頂点とすると、以下に夫人・嬪・女官がある、昭儀は嬪のうちの一つである)を与えられました。655年には、ライバルの王皇后を倒して皇后となりました。武后は高宗よりも4~5歳年上で、身体が弱く持病の高宗(2011年6月13日のブログ記事をご参照ください)に代わって政治をとるようになりました。女性は政治の場に出られないので、皇帝の後ろに座り、「垂簾聴政」(簾を垂らし、大臣から姿を隠して、皇帝と大臣の会話を聞いて指示を与える)を行いました。

武后は必要であれば、我が子でも手にかける・果断な性格を持っていた人です。次々に実子の李弘・李賢・李顕(中宗)・李旦(睿宗)を皇太子に就け、批判的な言動をとった李弘の急死(武后に毒殺されたとの説もある)と李賢の自殺に追い込まれた。高宗没後、李顕(中宗)が即位しましたが、生母(武后)と対抗し、即位後わずか54日で廃位されました。李旦(睿宗)を傀儡皇帝として政治実権を握りました。690年に睿宗を退位させ、自ら皇帝となりました。即位後、自身の正当化に宗教や祭祀を動員し、道教重視の唐朝に対して「明堂」という建物を建てて、自分自身を弥勒になぞらえ仏教を宣伝しました。その時期は仏教を道教の上に置かれ尊崇されました。また密告奨励して酷使を使って政敵を次々に殺し恐怖政治も行いましたが、一方で狄仁潔のような優れた人材を登用されました。

699年、李顕は武則天により再び立皇太子され、705年に大臣(狄仁潔は晩年の武后に李顕を皇太子への復活を決意させる立役者である)や将軍に迫られた武則天は李顕に譲位し、唐の国号を復活させられました。
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by jbucm | 2015-12-07 09:30 | 中国の話 | Comments(0)
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