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カテゴリ:中国の話( 68 )

孫思邈与阿是穴 

こんにちは、周です。今回から医家・孫思邈逸話を紹介します。

第一話:孫思邈与阿是穴
針灸学の阿是穴は、孫思邈(2009年3月2日ブログ記事をご参照ください)が臨床治療を行った時に発見されたと言われています。

ある日の朝早く、孫思邈(当時の彼は70歳位であります)は≪千金要方≫を書いていました。突如、郷里の一人が急を告げに来ました:孫先生、昨日用があって私は青石村に行きました、陳阿大の病気は進行して病情が益々悪化していますよ。痛くて死にそうです。受診(服薬や針灸治療など)しましたが効果はありません。陳さんは先生の往診を望んでいますが、貧困の家庭で、先生の診察料を支払えないことを恐れています。

郷里の話を聞いた孫思邈は、少しも躊躇わなく、こう言いました:今すぐ診察しに行きます。
郷里:青石村は遠いです、しかも羊腸小道(曲がりくねった小道、山道を指します)が多く、2つの山と3の溝を超えないと行けません、先生は年配で大丈夫ですか?
孫思邈:私は確かに年ですが、また硬朗(老人が体が丈夫であります)ですよ。

そう言いながら、孫思邈は針を用意して、薬嚢(中薬を入りのリュック)を背負って、杖をついて往診の途につきます。夕方にようやく青石村に着き、陳阿大が住むボロ家を見つけました。孫思邈は人事不省の陳阿大に正規の穴位を刺して、意識を回復させましたが、止痛できなかったです。その後、何度も古書に記載されている止痛作用ある穴位をすべて刺しましたが、全然効きませんでした(陳阿大は依然として痛みを訴えています)。孫思邈は、まさか人体の腧穴(輸穴)は古書に記載されているものしかないことはあるまい?と疑問しました。

彼は暫く考えました。
孫思邈は患者(陳阿大)に聞きました:一番痛い処は何処ですか
陳阿大は有気無力(息づかいだけで声に力がない、元気のないさま)返事しました:左、左、左……腿

そして孫思邈は親指で患者左腿のある部位を押しながら、「ここですか?」と聞きました。膝関節の左上方の処を圧したら、陳阿大が突然「阿……是……是這児(ああ、そこだ)」叫びました。孫思邈はそこを刺し後、患者の痛みがなくなりました。彼は大喜び、「先生、この輸穴は凄く効きますね、これは何という穴位ですか?」と聞きました。患者の苦痛を解消したので、孫思邈も上機嫌で、ハハハと笑いながら「先ほど、あなたが阿……是と言いましたよね、あれは阿是穴ですよ」と答えました。

附:腧穴、いわゆる「ああ、そこだ」という体表の圧痛点・過敏点で、畦穴も同じです。
経穴には正規のルート(十四経)上にある経穴が361個、その他に効果の認められたルート外の奇穴が数多くあります。それらの穴位は、大体場所が決まっているのですが、それとは別に阿是穴と言うものがあります。この経穴は場所が決まっている訳ではありません。圧痛点とか反応点の事を言います。針灸治療では、阿是穴を追いかけて治療しては根本治療にはならず、体の状態を見極め、経穴や奇穴を使って治療します。基本的にはその通りですが、場合によっては阿是穴が重要になります(例えば捻挫や打撲などの痛みが残った時や、ぎっくり腰などは、阿是穴のほうがよいです)。
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by jbucm | 2016-06-20 09:30 | 中国の話 | Comments(0)

詩経

こんにちは、周です。今回は「詩経」の話です。

「詩経」は孔子が編集したと伝えられる中国最古の詩歌集であります。この詩歌集は、最初は単に「詩」「詩三百」と称されていましたが、のちになって儒家経典に一つに揚げたところから、「詩経」と呼ばれるようになりました。同書は風(国風、民謡、恋歌など)・雅(雅楽、大雅と小雅に分かれる)・頌(祭祀に用いる神楽歌の歌詞、周頌と魯頌と商頌に分かれる)の三部分に分かれ、風の数量は最多(160篇)であります、収録された詩歌は全部で305篇にも及んでいます、古人は整数をとって「詩三百」と呼びます。「詩経」の中には、古代(周代)歴史の研究に欠かせない貴重な内容を数多く含まれ、世界文化史上にも計り知れない価値が有しています。「詩経」は包羅万象(内容が充実しておりあらゆるものを網羅している)の百科全書でもあり、今日に至るまで変わることがなく高い評価を受けています。

「詩経」には、多くの植物・動物の性状・産地・採集方法・食用季節などが収録・記載されています。これらの植物・動物のうち、百種以上は後世の本草学(薬用植物学)に転載され、薬用と認められています。例えば芣苡(車前子―オオバコ)、葛(葛根―クズの根)、薇(白薇―フナバラソウ)、芩(黄芩―コガネバナ)、勺薬(芍薬)、棗(ナツメ)。
また、古代の疾病に関する病名や証候も記事もあります。例えば痡(疲れて歩行不能)、瘨(癲狂―精神病)、噎(むせぶ)、曚(視力がよくない、はっきり見えない)、瞽(目が見えない人、盲人)。
衛生保健・環境衛生・害虫駆除に関しても記載があります。例えば髪曲局(固く束ねた婦人の髪型)、薄言帰淋(帰宅して髪を洗う)、洒掃(水を撒いて箒で掃く)、洒掃庭内(庭内に洒掃)、穹窒熏鼠(部屋を片付けて煙で燻して鼠を駆除する)。
このように、「詩経」は医薬著作ではないものの、医薬・保健・衛生に関する記述が少なくありません。

名前は「詩経」由来の一人・2015年のノーベル医学生理学賞屠呦呦(トゥ・ヨウヨウ)を紹介します。
屠呦呦の父親が生まれた我が子の泣き声を聞き、「呦呦鹿鳴、食野之蒿」(ユーユーと鹿は鳴く、野の蒿を食べる)を詠唱して呦呦と名付けました。屠氏の名前は、2000年以上前の中国古典・詩経と繋がっています。詩の続き「我有嘉賓、徳音孔昭」は、予め屠呦呦がノーベル受賞することを示します。偶然かもしれませんが、なんとも興味深いとこではないでしょう。
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by jbucm | 2016-01-11 09:30 | 中国の話 | Comments(0)

二十四節気―冬至

こんにちは、周です。今回は二十四節気―冬至の話です。

冬至は中国の旧暦の中で、非常に重要な節気で、伝統的な祝い日でもあります。「冬節」「長至節」「亜歳」とも称されます。約2500年前の春秋時代に、中国は太陽を観察して冬至の到来を測定できたのです。冬至は二十四節気の中で一番早く制定したもので、西暦12月22日或は23日です。古人は冬至について、こう言いました:「陰極之至、陽気始生、日南至、日短之至、日影長之至」。冬至以後の気候は最も寒冷の時期に入り、民間では、「冷在三九、熱在三伏」(三九は一番寒い、三伏は一番暑い)と言う諺があります。
(注:三九は冬至以後にやってくる第三度目の九日(27日間)を数え、二十四節気の大寒のあたり、西暦1月20日頃、冬季に最も寒い時期を意味します。三伏は2009年5月25日ブログをご参照ください)

冬至過節(冬至を祝う)習慣は漢代から始まり、唐・宋代では盛大な祝う行事をとして行われて、今日に受け継がれています。この日に家でご馳走を作って食べて祝います。全国各地(東南西北の各地)で異なる「食」習慣があります。北方は羊、餃子、ワンタンを食べ、南方は米団(米で作られた料理)、長線面(麺類)を食べます。各地では「祭天祭祖」という行事もあります。

ここで唐代詩人―白居易の詩を紹介します。

邯鄲冬至夜思家

邯鄲驛里逢冬至
抱膝灯前影伴身
想得家中夜深坐
還応説着遠行人


邯鄲で冬至の夜家を偲ぶ

邯鄲の旅館で冬至にあう
灯りの前で(一人)膝を抱き、伴に居るのは自分の影のみ
思えば故郷にいる家族の皆が、夜深くまで坐り
やはり旅人(私)の噂をしているに違いがない

邯鄲:中国河南省にある古都
驛:宿場(旅館)
遠行人:旅人、ここは自分を指す(自分を見て言う)
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by jbucm | 2015-12-21 09:30 | 中国の話 | Comments(0)

武則天(則天武后)

こんにちは、周です。今回は武則天(則天武后)の話です。

武則天(624~705年)は、并州文水(今の山西省の太原市文水)人で、唐代初期の女性皇帝で、本名武曌です。中国の「牝鶏司晨」(pìn jī sī chén めんどりが時を告げる、〈喩〉女性が権力を握る、かかあ天下である)を代表する人物(漢の呂太后、唐の武則天、清の西太后)の一人であります。しかし、呂太后・西太后は母親(呂太后は息子の恵帝の母親である、西太后は同治帝の母親である)として権威を振ったのに対して、武則天は中国史上ただ一人女性皇帝となりました。政治は男性が行うものという中国社会で、女性が政治の表舞台に立つのは大変なことであり、武則天と呂太后・西太后との立場の差は十分に理解されなければなりません。在位期間(690~705)、国号を(武)周とし、聖神皇帝と呼ばれていましたが、死後の諡号(おくりな)は天后・大聖天后・則天皇后・則天順天皇后など、「牝鶏司晨」を嫌う中国為政者の心情が表われています。

彼女は美貌と才能に恵まれ、636年に太宗の宮中に居ました。太宗死後に出家していたが、652年頃に召され、高宗(太宗の息子)の昭儀(後宮の地位の一つである、皇后を頂点とすると、以下に夫人・嬪・女官がある、昭儀は嬪のうちの一つである)を与えられました。655年には、ライバルの王皇后を倒して皇后となりました。武后は高宗よりも4~5歳年上で、身体が弱く持病の高宗(2011年6月13日のブログ記事をご参照ください)に代わって政治をとるようになりました。女性は政治の場に出られないので、皇帝の後ろに座り、「垂簾聴政」(簾を垂らし、大臣から姿を隠して、皇帝と大臣の会話を聞いて指示を与える)を行いました。

武后は必要であれば、我が子でも手にかける・果断な性格を持っていた人です。次々に実子の李弘・李賢・李顕(中宗)・李旦(睿宗)を皇太子に就け、批判的な言動をとった李弘の急死(武后に毒殺されたとの説もある)と李賢の自殺に追い込まれた。高宗没後、李顕(中宗)が即位しましたが、生母(武后)と対抗し、即位後わずか54日で廃位されました。李旦(睿宗)を傀儡皇帝として政治実権を握りました。690年に睿宗を退位させ、自ら皇帝となりました。即位後、自身の正当化に宗教や祭祀を動員し、道教重視の唐朝に対して「明堂」という建物を建てて、自分自身を弥勒になぞらえ仏教を宣伝しました。その時期は仏教を道教の上に置かれ尊崇されました。また密告奨励して酷使を使って政敵を次々に殺し恐怖政治も行いましたが、一方で狄仁潔のような優れた人材を登用されました。

699年、李顕は武則天により再び立皇太子され、705年に大臣(狄仁潔は晩年の武后に李顕を皇太子への復活を決意させる立役者である)や将軍に迫られた武則天は李顕に譲位し、唐の国号を復活させられました。
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by jbucm | 2015-12-07 09:30 | 中国の話 | Comments(0)

老驥伏櫪、志在千里

こんにちは、周です。今回は「老驥伏櫪、志在千里」(老いた駿馬は馬小屋に伏すも志は千里にあり)を紹介します。
『曹操・歩出夏門行』に出てくる有名な言葉です。老いた駿馬は飼桶につながれていても千里を走る気持に変わりはないし、志のある人は年をとってもはやる心は抑えられない、と自分の心境を述べているのです。この金言名句の後に「烈士暮年 壮心不已」(烈士は暮年にも壮心やまず)と続きます。
注:老驥=老いた駿馬・名馬。櫪=馬の飼い葉桶、厩(うまや、馬小屋)。

この故事を紹介します。
漢献帝建安5年(200年)、曹操は官渡の戦で袁紹を大敗(徹底的に打ち負かす)し、続いて北方の異民族・烏桓討伐する作戦も成功して北方を統一しました。南方の孫権や劉備の二雄を消滅して中国を統一しようと思いを強くなりました。しかし、その時の曹操は53歳でした。
曹操は自ら老驥に喩えて、下記の漢詩を書きました。
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附:馬に関するもう一つ名句・「南船北馬」を紹介します。
「南船北馬」とは、中国古代の交通手段であることを指します。気候が湿潤で、降雨が多くて、湖沼や河川の多い南部に船舶運輸は最良で、逆に荒涼たる・広大なる草原地帯の北部は馬で進むのが最良の交通手段であります。京(北京)杭(杭州)大運河は世界最長・最著名な人工運河であり、歴代の帝王が力を入れて建設していました。現在も淮安に「南船北馬、舎舟登岸」の碑があります。今の「南船北馬」は、南北の風物が大いに異なると意味します。
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大運河
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by jbucm | 2015-09-14 09:30 | 中国の話 | Comments(0)

言出爲論、下筆成章

こんにちは、周です。今回は「言出爲論、下筆成章」(言葉を発すれば論になり、筆をとれば文章を書くことができる)を紹介します。

そんな豪語したのは、曹操の三男・曹植(子建)であります。曹植は父と兄の曹丕とともに三国時代を代表する文学家の一人で、後世は彼に「天才詩人」という評価を与え、三曹(曹操、曹丕、曹植)を呼んでいます。曹植の代表作は《洛神賦》《白馬篇》《七哀詩》などがあります。
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詩歌を愛した曹操が銅雀台というものを造り、そこに息子達を集め詩歌の会を開きました。息子達は命題に従い、文を創作して父に差し出しました。曹植が創った1篇を目にして、曹操の面色(顔色)が変わりました。その作品はあまりに名文でありましたので、曹操は疑いました。「これは誰に代作してもらったのか?」と曹植に問いました。「言出爲論、下筆成章」と曹植が答えました。

曹植は非常に聡慧(聡明、賢い)で、10歳で《詩経》《論語》や先秦両漢(前漢と後漢の併称)辞賦(古代文体の1種)といった古典・詩歌を暗記し、詩歌や作文の創作にも巧みでありました。また周囲に丁儀や楊修(2015年6月22日 鷄肋の記事をご参照ください)らの当時一流の文人・学者が居ました。なお率直な性情を持ち主であり、詩歌を愛した父・曹操も曹植を皇太子に、と真剣に考えた時期もあったようであります。

父の在世中は順風満帆であった曹植も、父が死去し、兄の曹丕が帝位を継ぐと同時に人生の歯車が狂い始めます。丁儀らは粛清されました。兄は曹植に対しても「七歩詩」を迫って、加害しようとするなど、曹植の不遇が続きました。「七歩詩」の危機は自分が有していた才能で何とか切り抜けることができましたが、曹植は兄によって地方へ転々と左遷され、兄に睨まれ続けて生涯を閉じました。

附:七歩詩
煮豆持作羹   
漉鼔以爲汁  
萁在釜下燃  
豆在釜中泣  
本是同根生  
相煎何太急 


 
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by jbucm | 2015-09-07 09:30 | 中国の話 | Comments(0)

中国のお正月

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今日は、旧暦の1月1日です。中国のお正月です。この時期は、大勢の出稼ぎの人が故郷へ帰省し、家族団らんや親族訪問し、色んな伝統料理や伝統劇などを楽しんでいます。

さて、クイズです。中国の大晦日によく食べるものは日本にもとても人気があるもので、それはなにでしょう?お答えはのちほどに致しましょう。

大晦日の夜に、テレビ番組の中、一番視聴率が高いのは、日本のNHKの紅白歌合戦のような番組です。この番組は中国の中央テレビ局が開催される「春晩」と親しく呼ばれでいます、それは、「春節聯歓晩会(親睦パーティー)」の略称です。全国の有名な歌手や芸能人が集まり、夕方8時から、深夜1時ごろまで、5時間に渡って、大いに腕前を見せますが、毎年ほぼ同じような内容で、新奇のものがないため、次の日から、ネットで毒舌がをふるう人が多いです。民衆の好みがさまざまで、すべての人に満足してもらえないのは当然です。おそらく、視聴率が高いのは、他に見るものがあまりない、それと、後で毒舌のネタにするものを見つけるのも一つの楽しみではないかと思います。まあ、後で指摘されることを覚悟しながら一所懸命、この番組を企画してくれるスタッフ達や、芸を披露してくれる芸能人達に感謝したいです。

では、上のクイズの答えです:餃子でした。中国の大晦日の夜に餃子を食べる習慣は、餃子の形が昔のお金である馬蹄形の「元宝」に似ていることからきているようで、年越しの際、餃子を食べれば「発財」(財をなす)に通じるということです。新年の幸運を呼ぶということでしょう。

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最後に、中国の新年のご挨拶をさせて頂きます:新年快楽!恭喜発財!

(李)
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by jbucm | 2015-02-19 10:30 | 中国の話 | Comments(0)

人彘


こんにちは、周です。今回は人彘(zhi 4声)・人を豚にした話を紹介します。

漢王朝を開いた劉邦(高祖)は、第一夫人の呂氏(呂后)のほかに数人の愛姫(戚夫人はその一人である)が居ました。呂后が生んだ息子・盈(恵帝)は、劉邦の死後帝位に就きましたが、すんなりと即位したわけではありませんでした。劉邦は、一時期戚夫人の息子・如意を太子にしようと、本気で考えたことがありました。

呂氏は、劉邦が微賤の時に妻となり、32歳に盈を産みました。6歳の盈を太子になった年は、劉邦が在位2年目でした。その後、劉邦に寵愛された戚夫人が如意を産みました。盈との年の差は3歳であります。如意が10歳の時、趙王に封じられました。この頃から劉邦は、太子を盈から如意に変えようとしています。

呂氏は、毎日戦戦兢兢(びくびくする)として過ごしました。太子が更迭されれば、愛姫戚夫人の天下だ、目障りな自分は何れ殺されると思いました。しかし、劉邦の太子を更迭する希望は、影響力がある何人かの重臣の反対で妨げられ、実現することができなかったです。

62歳で劉邦が死にました。17歳の盈が即位し、恵帝を号し、呂氏は皇太后となりました。田舎育ちで教養もなく、気が強い呂氏は、戚夫人への復讐を始めました。かつての嫉妬が剥き出しに表れました。如意を毒殺しても、満足しなかったです。次に戚夫人を人彘(人豚)にしたのです。

戚夫人の手足を切断し、眼に筒を当てて眼球をえぐり出し、耳に薬を入れて焼いて、聞こえなくさせ、薬を飲ませて咽喉を潰して、声を出なくさせ、「人彘」と名付けて糞坑(便所)に閉じ込めました。長安の冬は寒いです。こんなにまでされた戚夫人は、奇跡に生きていたのです。

数か月を経過してから、呂氏は恵帝を呼んで、この人彘を見せました。恵帝は、初めてはこの生き物が何のものか分からなかったようです。質問して、初めてこれが戚夫人の変わり果てた姿であることを知りました。母親の凄まじい(残虐)行為にショック!そのまま病気になってしまい、朝政もできなくなり、毎日のように酒色(酒と女)に溺れ、7年で死にました。

恵帝が死んだ後、事実上は呂氏が皇帝になりました。高祖の皇后として高后と呼ばれました。ある日、犬のようなものにわきを噛まれ、その傷の原因で(63歳)死にましたが、高后本人は戚夫人母子にした仕打ちのたたりを信じたかもしれません。
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by jbucm | 2014-11-10 09:30 | 中国の話 | Comments(0)

烏鶏白鳳丸の由来


こんにちは、周です。今回は烏鶏白鳳丸の由来を紹介します。

ある年、華佗(後漢末;109?-207?)は徐土(現在の徐州)を遊学・行医していました。重症になる母親が従兄弟に小車(搬運用の一輪手押す一車)で華佗を訪ねてきました。母親は、こう言いました:あなたが患者の爲、懸命に勉強していることを知り、安心しています。私はこの世に去る前に、我が子と会いたくて、あなたの従兄弟に運ばれました。華佗が、母親を診察して(母親は)確かに重症であると診断しました。診察を待っている患者が居るので、又も従兄弟に頼んで母親を先に自宅に送ることにしました。
華佗が、従兄弟にこう言いました:お兄さん、母は危篤状態で、恐らく3日も持たないです。ご苦労さんです、母のことを宜しく頼みます。人参湯等の救急薬を準備してあるので、帰る途中で死去するのを防ぐ爲、飲ませてください。私はここを片付けたら直ぐ帰ります。

3日後に華佗が家に着きました。母親の健在ぶりを見て、吃驚しました!もしかして、自分の診断は間違った?(帰る途中で)母に何を食べさせたかを従兄弟に聞きました。

従兄弟:村を通った際、叔母さんは鶏スープが飲みたがっていました。村の人口は少なくー
九戸(世帯)しかない、しかも玉子生む母鶏(雌鶏)ばかりを飼われて、皆売りたくなかったです。探した結果、漸く1羽公鶏(雄鶏)が見つけ、飼い主が売ってくれました。鶏スープにあなたが準備した人参湯等の救急薬を加え、3回分けて叔母さんに飲ませました。
華佗:どんな形をした鶏ですか?
従兄弟:白毛、鳳頭、皮肉都是黒的(白い毛、鳳の頭をして、皮と肉は、炭のように真っ黒い)

華佗は、従兄弟の話を聞いた後、(白毛、鳳頭、皮肉都是黒的)烏骨鶏を頭に浮かびました!それです!烏骨鶏です!直ちに市場に行き、同じような鳳頭鶏(=烏骨鶏)を買い、従兄弟が言った調理法で鶏スープを作り、母親に飲ませました。しばらくすると、母親は元気になりました。その後、華佗は同じ治療法を用いて、母親と同じ病証を持つ患者を治しました。

華佗は、その鶏スープを「九戸鶏湯」と命名し、《青嚢経》に収録しました。残念ですが、華佗が著した《青嚢経》は、伝承がとだえています、考証することができません。民間では、烏骨鶏を要薬と、滋補薬を配合し、丸薬(製剤の1種)を作ります。これは婦人のあらゆる病気を治す妙薬です(とくに女性の生理痛や生理不順に使われることが多く、その効果は絶大です。または体質改善にも効きます)。烏鶏白鳳丸と名付けられました。

烏鶏白鳳丸の組成と烏骨鶏を紹介します。
烏骨鶏を主成分と、朝鮮人参、黄耆、当帰、鹿角胶、牡蠣、熟地黄、香附子です。出来上がった薬は、ロウで密封されるので、長年も変質せずに保存できたそうです。烏骨鶏は江西省の山地が原産で、毛は白く、耳は青く、とさかは赤く、頭のてっぺんには丸くて、白い毛があるが、皮と骨と肉は、炭のように真っ黒いです。
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by jbucm | 2014-07-28 09:30 | 中国の話 | Comments(0)

破釜沈舟

こんにちは、周です。今回は成語―破釜沈舟の話です。

秦の末年、各地の英雄達が反秦の旗を揚げ、戦国時代の各国王族の後裔達も、自分の旧国号(王朝の名)を立てて兵を募り、反秦戦争を起こしました。秦の大将―章邯が兵を率いて反撃し、当時の勢力が比較的に強い楚軍に大勝、趙の重鎮―巨鹿城まで追い詰めました。

趙王はすぐに各国の助け(援軍)を要請しましたが、皆が秦の強さに怯えられて、援助の手を差し伸べなかったのです。秦は益々勢力が拡大していきました。楚の大将―項羽が再び秦を攻撃しようと、全軍をひきいて黄河をわたったが、そのとき、船をみな沈め、釜を壊し、営帳(住居)を焼き払い、僅か三日分の食糧を持っただけで、必死の覚悟にさせ、生還する心が微塵もないことを兵士に示しました。九戦を経て、章邯を破りました。巨鹿城の危機を解除しました。

項羽の行動は、兵士達に「只許前進、不準後退」(前に進めるだけ、後ろへ下がることが絶対許さない)という決心を持たせ、勝利を導きました。後代の人は、破釜沈舟を、戦いに臨んで決意を示す・とことんまでやる覚悟のほどを示す時に使われています。

出典:≪史記・項羽本紀≫ 項羽乃悉引兵河、皆沈船、破釜甑、焼廬舎、持三日糧、以示士卒必死、無一還心。
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by jbucm | 2013-02-16 15:46 | 中国の話 | Comments(0)