カテゴリ:中国語( 13 )

不思議な中文

こんにちは、周です。今回は中国語の話です。

以下は「我」と「佛」の会話です、中国語で紹介します。
有一天、我求了佛、佛説:我可以讓你許個愿。
我対佛説:讓我家人和所有朋友永遠健康!
佛説:只能四天
我説:行。春天、夏天、秋天、冬天
佛説:不行、三天
我説:行。昨天、今天、明天
佛説:不行、二天
我説:行。白天、黒天
佛説:不行、就一天
我説:行。
佛茫然問到:哪一天
我説:毎一天
佛説:行。家人和所有朋友天天健康!

心酔される中国文化!不思議な中文です。
中国語が分かる方は、中国語の素晴らしさが実感出来ましたでしょうか
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by jbucm | 2017-03-13 09:30 | 中国語 | Comments(0)

(中国語)文字ゲーム

こんにちは、周です。今回は中国語の話です。

中国古人が(中国語)文字ゲームを遊ぶのは一流であります。幾つかを紹介します。

只可看、不能読(目で読むと文章が理解できるが、文字を看ない・発声だけ聴くと意味が分からない)。以下の文章の漢字は全てjiを発音します、文字を看ないと意味がわかりません。
季姫寂、集鶏、鶏即棘鶏。棘鶏饑嘰、季姫及箕稷済鶏。鶏既済、躋姫笈、季姫忌、急咭鶏、鶏急、継圾几、季姫急、即籍箕撃鶏、箕疾撃几伎、伎即斎、鶏嘰集几基、季姫急扱屐撃鶏、鶏既殛、季姫激、即記《季姫撃鶏記》。
現代文に訳します。
季姫という人は寂しいから、荊棘林に居る野鶏を集めて飼うことになりました。腹空いている野鶏がちつちつと鳴いています、季姫が竹箕の中に置いてある小米を餌としてやります。満腹した野鶏は季姫の書籍の上に跳び上って止ります、季姫は本が汚されるのが嫌いので、急いで鶏を追い払います。びっくりさせられた鶏は今度、机に跳んで行きます、季姫はもっとイライラして、竹箕を武器として鶏を攻撃(投げる)します。投げる竹箕の速度が速い、机に置いてある陶伎俑(陶器の人形)を直撃して、(陶伎俑)床に落下して粉々となりました。その時の野鶏らは、机の下に群れてちつちつと鳴いています、野鶏らに怒らせた季姫は自分が履いている木履を脱いで鶏を叩き殺しました。養鶏の経歴を思い出したら(感情が)高ぶって、《季姫撃鶏記》を書きました。

数字詩
呉承恩の「一輪明月満乾坤」
十里長亭無客走、九重天上現星辰。
八河船只皆収港、七千州県尽関門。
六宮五府回官宰、四海三江罷釣綸。
両座楼頭鐘鼓响、一輪明月満乾坤。
卓文君の「怨郎詩」
一別之后、二地相思。
雖説三四月、誰又知五六年。
七弦琴無心弾、八行書無可傳。
九連還従中折断、十里長亭望眼欲穿。
百思想、千系念、万般無奈把郎怨。
万語千言道不完、百無聊頼十凴欄。
重九登高看孤雁、八月仲秋月圓人不圓。
七月半、秉燭焼香問蒼天、六月伏天従揺扇我心寒。
五月石榴似水、偏遇陣陣冷雨澆花端。
四月枇杷未黄、我欲対鏡心意乱。
忽匆匆、三月桃花随水転、漂零零、二月風筝線児断。
噫、郎呀郎、巴不得下一世、你爲女我来做男。

前から読んでも・後ろから読んでも詩になる。
正読詩(前から読みの詩)
悠々緑水傍林偎、日落観山四望回。
幽林古寺孤明月、冷井寒泉碧映台。
鴎飛満浦漁舟泛、鶴伴閒亭仙客来。
游径踏花煙上走、渓流遠棹一篷開。
倒読詩(後ろから読みの詩)
開篷一棹遠流渓、走上煙花踏径游。
来客仙亭閒伴鶴、泛舟漁浦満飛鴎。
台映碧泉寒井冷、月明孤寺古林幽。
回望四山観落日、偎林傍水緑悠々。
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by jbucm | 2016-01-25 09:30 | 中国語 | Comments(0)

乱世姦雄

こんにちは、周です。今回は「子治世之能臣、乱世之姦雄」(あなたは治世の能臣、乱世の姦雄)を紹介します。

『魏志・武帝紀』にあり、曹操に対しての文人・許劭の言葉であります。子とはあなた、能臣とは才能ある臣、姦雄とは悪知恵に長けた英雄を指します。許劭は曹操を「乱世姦雄」と評した第一人であります。

許劭(生没年不詳)は字を子将といい、東漢末年の文人で、汝南郡平与(今の河南)の人で、人物評を得意としました。《辞海》に彼に対しての評価は「有名於世、喜評論人物」であります。史書には「少峻好名、好人倫」と称賛します。その人柄は人々に敬愛されていました。

当時の汝南郡の文人は、毎月の月初め(月旦)に行う人物評の会は有名でありました。のちに、人物評のことを「月旦」というのは、許劭が月初めに開いた人物評の会にちなみます。許劭が率いた「月旦」人物評は公正性・正確性を有するので、官府(政府機関)も人物評を見て官職を与えます(適才適用)。諸国の領主は許劭の好評を博した人物を争うようになっていました。「月旦」が有名なのを聞いた青年の曹操も許劭のところへ行き、自分の人物評を乞いました。しかし、許劭は口を開こうとしません。許劭は曹操の顔を一目見て「この男は、ただの人物ではない」と思いました。
曹操の再三問いと威嚇に、許劭はようやく重い口を開き、「子治世之能臣、乱世之姦雄」(君は平和な時なら才能ある官吏で、乱世には姦雄になるでしょう)と評しました。「乱世の姦雄」と評された曹操が大笑いながらその場を去りました。

曹操が「乱世の姦雄」をどう理解したのは、後世は知りません。
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by jbucm | 2015-07-06 09:30 | 中国語 | Comments(0)

鶏肋

こんにちは、周です。今回は鶏肋を紹介します。

鶏肋とは鶏ガラを指します。周知の通りスープなどの材料で、長時間煮ると美味しいダシをとることができます。中国料理やラーメンに欠かせない材料の一つであります。昔はしゃぶって食べる事もありました。しかし、肉は僅かしかついていないので、満腹できないから「食之無所得、棄之可惜」(大して役に立たないが、捨てるには惜しいもの)を指して「鶏肋」というようになりました。

初出は『三国志・魏志・武帝紀』に記録がある曹操の言葉であります。建安24(219)年に始まって曹操が生涯のライバルである劉備と漢中の領有地をめぐって対陣しました。定軍山の戦いで蜀の老将軍・黄忠が、魏の屈指の勇将・夏候淵を破ってから局面が大きく展開しました。曹操は自ら大軍を率い出陣しました。しかし、魏は蜀に敗れ、曹操も危険な目に遭いました。曹操は内心、収兵(兵を収める)して帰ろうとしたが、蜀軍の笑いものになることを恐れて決断できずにいました。

そんな時、曹操は夕食の最中も鶏湯を食べながら、進退を思考していました。そこへ夜の口令(伝達事項の際に使う暗号や言葉)を聞きに夏侯惇(夏候淵の一族)が入ってきます。曹操は夏侯惇を前にしても、碗の中の鶏ガラを見ながら「鶏肋、鶏肋……」とつぶやきます。「言語明瞭、意味不明」のまま、夏侯惇が全軍に「鶏肋」と伝達しますと、曹操の側近の一人・主簿(文官)の楊修は少しも慌てず撤退の準備を始めます。驚いた夏侯惇が理由を問うと、「漢中はまさに鶏肋のようなものだ、惜しいが撤退するつもりだろう」と解釈します。夏侯惇は「公はまことに魏王の肺腑を知るなり」と感心して部下も撤退準備を始めさせます。心煩意乱(こころがもだえ乱れる)の曹操は眠れず軍帳(行軍の時に泊まるところ)を出て軍営(外)を巡回します、全軍が撤退準備をしていることに大いに驚き、夏侯惇を問うと楊修が鶏肋に対する定義を判りました。楊修に対して「お前はどうして流言を広めて擾乱軍心(軍心を乱す)のか」と激怒し、楊修を処刑させました。

楊修は才能がある人です。惜しいですが、忌才(自分以上の才能がある人を嫌う)の曹操が言った鶏肋で落命しました。
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by jbucm | 2015-06-22 09:30 | 中国語 | Comments(0)

親賢臣、遠小人

こんにちは、周です。今回は「親賢臣、遠小人」(賢臣に親しみ、小人を遠ざける)を紹介します。

出典は『蜀書・諸葛亮伝』です。
賢臣は賢明・実直な家臣、小人とは大人の反対語ではなく器量の小さい人・悪党を言います。諸葛孔明が蜀の後主(二代皇帝)・劉禅(阿斗、劉備の子)に対して出師表(諌言)の中にあるフレーズであります。
孔明は、前漢王朝が興隆した理由として、初期の皇帝が「親賢臣、遠小人」を徹底したことと、後漢王朝が滅亡した理由として、桓帝や霊帝が「遠賢臣、親小人」(小人に親しみ、賢臣を遠ざける)をあげ、劉禅に自戒を促したのであります。孔明はさらに賢臣として暗に名をあげたのは、侍中の郭攸之・尚書の陳震・長史の張裔・参軍の蒋琬らといった者たちでありました(侍中・尚書・長史・参軍は官職名である)。
但し、「忠言逆耳」(忠言耳に逆らう)という諺がありますが、暗愚な劉禅は孔明の奏請に沿って蒋琬を大将軍に任命して、国政の全権を他人に委ねたものの、自身が国政に関与しなくなりました。その後、賢臣たちが相次いで亡くなり、劉禅は酒色(酒と女)に溺れ、孔明の諌言を無視し、宦官の黄皓を近づけて蜀の滅亡を速めてしまいました。

出師表にこう記載しています:
親賢臣、遠小人、此先漢所以興隆也。遠賢臣、親小人、此後漢所以傾頽也。後諸葛亮逝。後主以亮之遺命任用蒋琬爲大将軍、総理国事。後蒋琬歿。後主遂寵信宦官黄皓、沈溺於酒色、黄皓得以干預朝政、操弄権柄。司馬昭起兵伐之、終滅蜀国。
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by jbucm | 2015-05-11 09:30 | 中国語 | Comments(0)

白眉(馬良)

こんにちは、周です。今回は白眉(馬良)を紹介します。

白眉とは、白い眉のことを指します。多くの中で一番優れたものを白眉というのは『三国志』の故事に因みます。

中国には、色に因んだ故事や格言が多く、中には日本でも用いられているものがあります。例えば、北宋の政治家・詩人王安石(1021~1086年)の詩(咏石榴花)に、「濃緑万枝紅一点、動人春色不須多」という表現があります。現在では、多くの男性の中で女性一人だけが混じって活躍することを指して、紅一点と言います。

紅一点と同じく、現代でも頻繁に用いられる色に因んだ故事に白眉があります。この白眉は、前回紹介した馬謖の兄で、諸葛亮の心腹(腹心)であった馬良という武将に因んだ故事であります。

襄陽郡宜城県の名門・馬一族には、五人の兄弟があり、兄弟五人とも大変優秀でありました。五人の中で最も優れたと言われたのは馬良でした、馬良は眉が白かったです。このことから、後世、多くの中で一番優れたものを白眉というようになりました。

荊州を奪取した劉備は、馬良を招いて留守を任せ重職に任命しました。馬良は劉備の命令で呉に使者として赴いた時、孫権を感服させたという逸話も残りました。武将としての馬良は、周辺の少数民族(五渓)の討伐に軍功を挙げましたが、章武二年(222年)の夷陵の戦いの際、落命しました。

生前、馬良は諸葛亮と個人的な親交があったらしいです。劉備が関羽・張飛と義兄弟の盟約を結んだように馬良と諸葛亮も同様の盟約を結んだかもしれません。また、『三国志演義』に、腕に毒矢を受けた関羽が、囲碁をやりながら名医の華佗(後漢末;109?-207?)の治療を受ける場面があります。このようなことが、実際にあるかどうか疑問が残るが、囲碁の相手として登場する馬良であります。中国も日本も、この場面は盛んに絵描かれたが、関羽の囲碁の相手の眉を、白く描いた作品もあります。

馬良の死後、諸葛亮は馬良の弟を重用するという誤りを犯し、前回紹介した「孔明揮涙斬馬謖」(2015年2月16日ブログ記事をご参照ください)がありました。
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by jbucm | 2015-03-09 09:30 | 中国語 | Comments(0)

孔明揮涙斬馬謖

こんにちは、周です。今回は故事「戮謖以謝衆」(泣いて馬謖を斬る)「孔明揮涙斬馬謖」(涙を揮いて馬謖を斬る)を紹介します。

『三国志』に関わる故事、名言の中でも最も有名なものの一つです。信頼している部下を、規律の厳正を守るために私情を排して処分することを意味します。

出典は『蜀書・諸葛亮伝』です。
建興六年(二二八年)、国力を蓄えた蜀は、諸葛亮(孔明)の進言で北伐の軍を起こしました。総指揮は諸葛亮自身であり、出兵して祁山に向かいました。蜀にとってはこの重要な戦いであり、軍事的な要地・街亭の前線指揮官を命じられたのが、若き将軍・馬謖(一九〇~二二八)でありました。『三国志』には馬姓の武将が多数登場しますが、馬謖は襄陽郡宜城県の名門・馬一族の出身で、劉備の重臣である・名前は馬良という兄が居ます。弟の馬謖は才気すぐれ、兵術を得意としていたが、やや弁舌のみに頼りと、劉備は彼の欠点を熟知していたようで、諸葛亮に後事(決して馬謖を重用するな)を託しました。

しかし、諸葛亮は、彼を自分の後継者として信頼していました。劉備の死後、しばしば出兵して魏と戦ったが、馬謖は彼の参謀に抜擢されていました。建興六年、孔明は出兵して祁山に向かって魏を討ちました。歴戦の将、魏延や呉壱らが従軍しました。人々は、彼らのだれかを先鋒としたらよかろうと論じたが、孔明は人々の考え方と相違して馬謖に命じて大軍を率いて先鋒とし、魏将張郃と街亭で戦わせました。ところが馬謖は諸葛亮の主旨を反して布陣したため張郃に破られて、部下の兵卒は四散しました。諸葛亮は前進基地を失い、蜀の漢中へ退却しました。馬謖は牢に入れられ死にました(馬謖は諸葛亮に処刑された、との説がありました)。孔明は彼のために涙を流しました。・・・・・・謖は三十九歳でした。

『三国志』に、こう記しています:
建興六年、亮出軍向祁山。時有宿将魏延呉壱等、論者皆言以為宜令為先鋒。而亮違衆抜謖、統大衆在与魏将張郃戦於街亮、為郃所破。士卒離散。亮進無所拠退軍還漢中。謖下獄物故。亮為之流涕。・・・・・・謖年三十九。
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by jbucm | 2015-02-16 09:30 | 中国語 | Comments(0)

千里眼

明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。

こんにちは、周です。今回は成語――「千里眼」(qian li yan)を紹介します。

「千里眼」は、見通しのきく人・望遠鏡(古)と、2つ意味があります。1里はメートル法を換算すれば、4キロメートルです。千里と言えば4千キロメートルとなりますが、こうした実際の距離ではなく、遥か遠くという意味で「千里」「千万里」と言います。現在は、どんな離れた・見えないところでも見通す力を喩えるという言葉で使われています。中国では、よく「千里眼、順風耳」で表現します。
例:他具有通天的本領、那就是千里眼与順風耳(彼は、素晴らしい腕前を持っている、それは千里眼と早耳である)。

出典は『魏書・楊逸伝』です。楊逸は29歳の若さで、光州の長官となりました。丁度その頃、不作続きで酷い飢荒(飢饉、ききん)となり、餓死する人が続出しました。朝廷の許可される前に、楊逸は役人の反対意見を聞かずに勝手に政府の糧倉(糧食を保存する倉庫)を開いて人々に糧食を配給しました。そして糧倉を開き、人々に炊き出しをした上で、朝廷(皇帝)に報告しました。彼は、このように民衆のことを考え、部下が民衆を苦しめないように監視を厳しくしました。役人や兵士は地方へ行くとき、糧食を持参させました。中には役人や兵士にご馳走を出そうとする人も居ましたが、彼らは固く断って、こう言いました:「長官の眼は千里眼で、なんでもお見通しだ、ごまかすことはできない。」そして、人目につかないところでも、決して楊逸の命令に背こうとしなかったです。

惜しいことですが、その後、彼は帝位を狙う反対派に睨まれ殺されました。光州の人々は悲しみ、隅々まで彼を弔う祭壇が設けました。

『魏書・楊逸伝』に、こう記載しています:
逸爲政愛人、尤憎豪猾、広設耳目。其兵吏出使下邑、皆自持糧、人或爲設食者、雖在闇室、終不進、咸言 楊使君、有千里眼、那可欺之!
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by jbucm | 2015-01-05 09:30 | 中国語 | Comments(0)

巻(捲)土重来

こんにちは、周です。今回は成語――「巻(捲)土重来」( juan tu chong lai)を紹介します。

巻(捲)土重来というのは、一度の戦いに敗れたものが、また勢いを盛り返し、砂埃を巻き上げて(巻土)、再び攻めて来る(重来)との意味です。貶義を含まれますので、よい意味ではあまり用いません、よい意味で勢いを盛り返し時、「東山再起」を使います。

出典は唐代の有名な詩人・杜牧の詩です。
杜牧は、唐代の名宰相と言われた杜佑の孫で、25歳の時、進士(高級官吏)の登用試験に合格し、役人となりました。その後、朝廷でかなりの地位まで出世しましたが、当時の宰相に憎まれて、長い間地方長官として各地を転々とされました。のちに再び都に戻ることができましたが、彼は役人だけではなく、孫子兵法の注釈したことでも知られ、また数々優れた詩を残しています。

彼は旅の途中、長江の北岸にある烏江というところに差し掛かった時であります。杜牧は、この地に纏わる・千年前の歴史物語を思い浮かべました。紀元前3世紀の終り頃、始皇帝の死に秦が滅亡した後、二人の英雄―項羽と劉邦が対立し、5年に渡った激しい戦いが繰り広げられました。初めは、項羽のほうが勝っていたが、形勢が逆転し、次第に追い詰められました。垓下というところに包囲され(「四面楚歌」の由来、次回紹介します)だが、ようやく脱出し、烏江まで逃げました。この長江を渡れば、項羽の故郷であります。地元の人が船を用意し、項羽に「故郷に帰って再起する」ように勧めたが、項羽が断って、追ってきた敵軍と戦った後自決しました。

杜牧は、この物語を基に「題烏江亭」という詩を書きました。
勝敗兵家事不期
包羞忍恥是男児
江東子弟多才俊
巻土重来未可知

江東は項羽の故郷であります。そこには豪傑が多いですので、「巻土重来」したら、情勢はどうなるか分からないのに……、項羽の運命を惜しんだのであります。
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by jbucm | 2014-12-08 09:30 | 中国語 | Comments(0)

完璧帰趙

こんにちは、周です。今回は成語――「完璧帰趙」(wan bi gui zhao)を紹介します。

今は(借りた物を)少しも損なわずに返す.そっくりそのまま返すという意味で使われています。完は完全・欠けない意味で、壁はドーナツ型をする玉器を言い、趙とは趙国を指します。戦国時代、趙国の藺相如は、秦国の15の城と交換する爲「壁」を持って秦に行きましたが、秦王に誠意がなかったのを見て、その「壁」を取り返し、無事に持ち帰ったという故事からです。

出典は『史記・廉頗藺相如列伝』です。戦国時代(紀元前五~三世紀)・紀元前283年に、趙の恵文王が「和氏の壁」という名玉を手に入れました。この噂は忽ち各国に広まり、早速秦王が使者を趙国へ送り、秦国の15の城を「和氏の壁」と交換してほしいと申し入れであります。交換などと言った相手は、大国(強国)の秦国!ただで貰う気がする!趙の恵文王は、そう思って、直ちに重臣会議を開きましたが、誰も対応策を思いつきませんでした。

その時、重臣の一人が部下の藺相如を推薦しました。
呼ぶ出されて恵文王の前に出た藺相如は、こう言いました:秦国は強国であり、申し入れを受けるべきです。秦に攻撃の口実を与えてはいけません。
恵文王:だが、壁を取られ、城は貰えないということになったらどうする?
藺相如:いや、心配ご無用。私は使者に立ちましょう。城が手に入ったら壁は置いて行きます。城が手に入らなければ壁は持ち帰ります。
こうして藺相如は、壁を持って秦に行きました。

壁を手にした秦王は、傍に居た美女や家来に見せて大喜びであります。だが、交換するはずの城は、全然話しません。それを見た藺相如は、壁を取り戻そうと、秦王にこう言いました:実は、その壁には小さな傷があります。見つけ難いので、それを教えましょう。
壁を受けると、宮殿の柱を背にしてすっくと立ち上がり
藺相如:秦王は交換する誠意は、ちっともない!取れるものなら取ってみろ!その前に私の頭とこの壁を柱に叩きつけて粉々にしてやる。

その死を恐れない気魄に、秦王はすっかり気を飲まれてしましました。そこで藺相如は、堂々で熱弁を振って、遂に壁を趙に持ち帰ることができました。その後、趙の恵文王に上大夫(官名)に昇進されました。
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by jbucm | 2014-10-20 09:30 | 中国語 | Comments(0)

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