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不思議な中文

こんにちは、周です。今回は中国語の話です。

以下は「我」と「佛」の会話です、中国語で紹介します。
有一天、我求了佛、佛説:我可以讓你許個愿。
我対佛説:讓我家人和所有朋友永遠健康!
佛説:只能四天
我説:行。春天、夏天、秋天、冬天
佛説:不行、三天
我説:行。昨天、今天、明天
佛説:不行、二天
我説:行。白天、黒天
佛説:不行、就一天
我説:行。
佛茫然問到:哪一天
我説:毎一天
佛説:行。家人和所有朋友天天健康!

心酔される中国文化!不思議な中文です。
中国語が分かる方は、中国語の素晴らしさが実感出来ましたでしょうか
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by jbucm | 2017-03-13 09:30 | 中国語 | Comments(0)

孫思邈巧治脱肛

こんにちは、周です。医家・孫思邈逸話を紹介します。 

第四話:孫思邈巧治脱肛
唐の貞観年間、河南府ある少尹(尹=官名、地方の長官)は使者として東女国に出向しています。この少尹は平素身体健壮ですが、最近脱肛(病)に悩まされています(咳嗽すると肛門や直腸の下のほうの粘膜が肛門外に脱出する、時に夢精滑精する、頭暈などを伴う)。当地の名医の診察・治療を受けましたが、好転しませんでした。

孫思邈は丁度用事(親戚を訪問する)があってその地を通過しました。少尹は孫思邈の往診を要請しました。孫思邈は少尹を診査しました:脈沈細無力、舌胖嫩、苔少而潤。周囲に美貌な妾は少なくとも10人も居ます。過度な房労(過度な性生活のために起こる虚損状態、色欲傷・色労・房室傷ともいう)による腎陽虚と、孫思邈は知り(診断)ました。
孫思邈は何にも言わず帰ろうとした時、少尹が自分の病情を問いました。
孫思邈はこう言いました:もし大人(地位の高い長官に呼びかける敬称)は誠意があれば、身分を落として医者の話を守って頂けますか?少尹は「はい」と返事しました。孫思邈は、1000日間一人暮らし(独身に戻る)、女色(性生活)を離れることを要求しました。少尹は照れて「はい」と答えました。
そして孫思邈は小瓶を取り出して少尹に渡し、こう言いました:朝晩2回、瓶に入ったものを少し鼻内に入れて鼻を揉み揉み、10回位クシャミをさせる。少尹は試してやったら、すぐクシャミを連発し、涙と鼻水を出てきました。

孫思邈は微笑んで言いました:欲速不達(功を急げば目的を達することができない)。毎回少しでよいです。クシャミが多すぎると体力は持てないですよ。また少尹が今まで飲んでいる・補気方薬に少々補腎壮陽薬を加えました。治ったら薬を止めてください、と言いました。

その後、脱肛を治した少尹は(孫思邈に)謝恩するため上京しました。病を治された訳を聞きました。孫思邈は笑いながらこう言いました:大人は過度な性生活のため、腎陽虚衰→脾陽虚→中気虚弱→中気下陥→脱肛。差し上げた薬は只の通関散です。通関散は通関開竅作用があり、クシャミをしたら引気上行(気を上に引き上げて行く)し、1000日間の性生活をしなかったも加え、補腎益気薬を飲んだりして、三管斉下(三方面を一斉にやる)で効果が得ないわけはないでしょう。大人切記、病癒亦須節欲養生(よく覚えて下さいー病癒後も節度なセックス、養生が必要である)。あれからの少尹は養生之道を心かけして、100歳余まで生きられたそうです。

現代医学では、クシャミをすると横隔膜を上昇させ、内臓も一緒に持ち上げるので、中気下陥による内臓下垂(脱肛、子宮脱=子宮下垂)にある程度の効果があると認識します。

附:通関散の組成
甘草、人参、白朮、茯苓、桔梗、防風、荊芥、薄荷、乾姜、附子
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by jbucm | 2016-10-24 09:30 | 中医学 | Comments(0)

卒業式

学校の隣にあるお寺の桜花は満開している頃、27年度春の卒業式が行われました。その様子をお届け致します。

卒業されたのは、合計52名です。
平成25年4月生の中医中薬専攻科(12名)
平成27年4月生の医学気功整体専科(11名)、中医薬膳専科(29名)の皆様です。
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まず理事長からお祝い言葉を頂き、卒業証書を渡されました。中医中薬専攻科の韓先生・金先生、中医薬膳専科の担任の先生方(梁先生、桜林先生、加藤先生、鳳先生、田村先生、草香先生)、医学気功専科の宋先生・李先生から、暖かい励ましの言葉を贈られました。最後に関連団体の北京中医会や中医食養学会の責任者から両会を紹介しました。

その後、近くの中華料理レストランで行われた記念パーティーでは、卒業生たちが今後も中医学を勉強し続けたいと熱く語りあう様子が印象的でした。

中医学は奥が深いです、学校で勉強されたのは、あくまでも入門篇(勉強の方法)なので、卒業後も引き続き色んな形式で中医学を学ぶ必要あるのは間違いありません。

卒業生の皆様、三年間、又は一年間、本当にお疲れ様でした。日本に中医学を普及する事は、北京中医薬大学日本校の使命です。卒業後も私達にお手伝いの出来る事がございましたら、ご連絡を下さい。これからも、是非、一緒に頑張りましょう。

(教務担当:李・周)
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by jbucm | 2016-04-04 09:30 | 学校行事・お知らせ | Comments(0)

縁起がよい文旦(柚子)

こんにちは、周です。今回は文旦(柚子)話です。
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柚子は、柑橘類の一種であります。古人は文蛋(現在は文旦と書きます)と呼びます。原産は東南アジア・中国南部・台湾で、中国南方の広西省、福建省で多く栽培します。中国の広西省容県の「沙田柚」が良質とされています。性味は甘酸・寒で、脾・肝経に帰経します。消食化痰・理気平喘作用があります。消化不良、咳嗽、気喘、酒酔に用いられます。

≪日華子本草≫に、こう記載してあります:治妊婦人食少並口淡、去胃中悪気、消食、去腸胃気、解酒毒、治飲酒人口気。

沙田柚は古く(約2000年前)から栽培されています。沙田柚の名は、清の乾隆皇帝に付けられたというエビソートがあります(沙田県出身の朝廷官吏が柚を乾隆皇帝に献上しました)。その後、沙田柚は朝廷に朝貢するようになり、世界に知られるようになりました、需要も増え、1930年より容県以外の臨桂県・陽朔県も栽培し始めました(臨桂県・陽朔県の土壌の性質は容県と類すから)。今は臨桂県・陽朔県産の柚も容県産の柚と同じように「沙田柚」と称します。

沙田柚は広西省伝統的な輸出品として名が知られ渡っています。唐の詩人である張彤は、柚子を詠む詩を残りました:
樹樹籠煙疑帯火
山山照日似懸金

柚子の外形は真ん丸で、団圓与美満(団聚する、再会する、幸せで円満である)を象徴しますので、縁起が良いものとして南方の人々に喜愛されています。私の故郷(広州)では、中秋節や春節の時に柚子を食べます。結婚する家庭に柚子を飾ります(特に新郎新婦の寝室に欠かせない飾りものとなっています。広州語の柚子を「有子」(柚子=有子に因んで)と発音しますから、結婚した後に早く子供が生まれるという願望を表します。

柚子果肉は果汁が少ないが独特の甘みと風味を持ちます。果肉を生食する他に、皮も用いて加工品原材料として砂糖漬けなどを作ります。柚子皮を主原料にして作られた広東省東莞市石龍鎮の特産品―「麦芽糖柚皮」は有名です。また柚子皮も野菜として食べられます。
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現代営養学観点から見ますと、柚子は高い栄養価が有します。豊富なビタミン・タンパク質・ナトリウム・カリウム・カルシウム・磷等を含んでいます。
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by jbucm | 2016-02-29 09:30 | 中医学 | Comments(0)

温病学説とジカ熱

こんにちは、周です。今回は温病学説を紹介します。

清代には温病と総称される急性伝染病が明代に引き続き猛威を振い、正確な統計は残されていませんが、初清(1644年)から同治11年(1860年)までの214年間に84回を超える疾病が発生・蔓延したことが知られています。その中には傷寒(腸チフス)・霍乱(コレラ)・痢疾(赤痢)・マラリア・天花(天然痘)・猩紅熱・麻疹・白喉(ジフテリア)という伝染病が含まれていました。特に江南地域(長江下流以南)の気候は温暖湿潤で、人の往来も激しく人口稠密のため、最も頻繁に温病が流行しました。温病の流行を如何に抑え、発病した際に如何に治療するかが、医家達の課題となりました。

このような背景に、温病を研究した歴代が居ました。明・清代の呉有性・喩嘉言・戴天章・楊栗山・劉松峰・余師愚らは温病に対する病機、弁証の要点、有効な方剤について論述しました。清代に至って新たな一つの温病学学派を誕生しました。この温病学学派を代表するのは葉天士・薛雪・呉鞠通の医家です。葉天士は「温熱論」を著わし、温病の発生・進行パターンを明示するとともに、温病が衛気営血を侵入する4段階で弁証論治を提唱し、温病学説の理論体系を形成する重要な基礎となりました。薛雪の「湿熱条弁」・呉鞠通「温病条弁」は温病に対する三焦弁証を展開し、葉天士の学説を発展させました。このことによって「衛気営血」と「三焦」による弁証論治の体系が確立され、温病学説は大きな成熟期を迎えることになります。

中医学に温病学説の貢献は、以下の4つです。
1、熱性病に対する認識と治法が新たに創り出され、しかも温病学説は、その理論から弁証・用薬に至るまで経典と仰がれている「傷寒論」と同一でないことを世に示しました。
2、傑出な医家(温病学者)を輩出させました。
3、温病の治療に新たな治療法が持たされることによって、人の生命と健康を守る大きな後ろ盾となっていました。
4、温病学説は温病以外の学科疾患の治療に刺激を与え、新しい治療法を提供することとなりました。例えば、外科の疔瘡走黄(ちょうそうそうこう、病証名。疔毒が血分までに入り、危篤な状態である)の治療に応用されます。

以上から見ると、今中南米を中心にジカウイルス危惧されているジカ熱は、温病学説を用いて治療法が見付かるかもしれないと思います。
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by jbucm | 2016-02-22 09:30 | 中医学 | Comments(0)

猴年馬月

こんにちは、周です。今回は成語ー猴年馬月の話です。

さるに因んでの成語ー猴年馬月は中国の諺であります。いつになるかわからない時、事情の未来を予想できないのを意味します。干支では十二の輪で巡ります(十二年一回さる年が来る、十二ヵ月一回馬月も来る)、つまり「猴年馬月」の周期は十二年間です。今年の猴年馬月は6月5日~7月3日です。
猴年馬月の反対語は指日可待(まもなく実現すると期待できる)です。
例:不知要等到猴年馬月(いつまで待てば良いか分からない)。

猴年馬月の由来について、中国復旦大学の古漢語家である駱玉明教授は研究しました。
彼は「何年嘛月」の同じ発音だと認識します。
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by jbucm | 2016-02-15 09:30 | Comments(0)

(中国語)文字ゲーム

こんにちは、周です。今回は中国語の話です。

中国古人が(中国語)文字ゲームを遊ぶのは一流であります。幾つかを紹介します。

只可看、不能読(目で読むと文章が理解できるが、文字を看ない・発声だけ聴くと意味が分からない)。以下の文章の漢字は全てjiを発音します、文字を看ないと意味がわかりません。
季姫寂、集鶏、鶏即棘鶏。棘鶏饑嘰、季姫及箕稷済鶏。鶏既済、躋姫笈、季姫忌、急咭鶏、鶏急、継圾几、季姫急、即籍箕撃鶏、箕疾撃几伎、伎即斎、鶏嘰集几基、季姫急扱屐撃鶏、鶏既殛、季姫激、即記《季姫撃鶏記》。
現代文に訳します。
季姫という人は寂しいから、荊棘林に居る野鶏を集めて飼うことになりました。腹空いている野鶏がちつちつと鳴いています、季姫が竹箕の中に置いてある小米を餌としてやります。満腹した野鶏は季姫の書籍の上に跳び上って止ります、季姫は本が汚されるのが嫌いので、急いで鶏を追い払います。びっくりさせられた鶏は今度、机に跳んで行きます、季姫はもっとイライラして、竹箕を武器として鶏を攻撃(投げる)します。投げる竹箕の速度が速い、机に置いてある陶伎俑(陶器の人形)を直撃して、(陶伎俑)床に落下して粉々となりました。その時の野鶏らは、机の下に群れてちつちつと鳴いています、野鶏らに怒らせた季姫は自分が履いている木履を脱いで鶏を叩き殺しました。養鶏の経歴を思い出したら(感情が)高ぶって、《季姫撃鶏記》を書きました。

数字詩
呉承恩の「一輪明月満乾坤」
十里長亭無客走、九重天上現星辰。
八河船只皆収港、七千州県尽関門。
六宮五府回官宰、四海三江罷釣綸。
両座楼頭鐘鼓响、一輪明月満乾坤。
卓文君の「怨郎詩」
一別之后、二地相思。
雖説三四月、誰又知五六年。
七弦琴無心弾、八行書無可傳。
九連還従中折断、十里長亭望眼欲穿。
百思想、千系念、万般無奈把郎怨。
万語千言道不完、百無聊頼十凴欄。
重九登高看孤雁、八月仲秋月圓人不圓。
七月半、秉燭焼香問蒼天、六月伏天従揺扇我心寒。
五月石榴似水、偏遇陣陣冷雨澆花端。
四月枇杷未黄、我欲対鏡心意乱。
忽匆匆、三月桃花随水転、漂零零、二月風筝線児断。
噫、郎呀郎、巴不得下一世、你爲女我来做男。

前から読んでも・後ろから読んでも詩になる。
正読詩(前から読みの詩)
悠々緑水傍林偎、日落観山四望回。
幽林古寺孤明月、冷井寒泉碧映台。
鴎飛満浦漁舟泛、鶴伴閒亭仙客来。
游径踏花煙上走、渓流遠棹一篷開。
倒読詩(後ろから読みの詩)
開篷一棹遠流渓、走上煙花踏径游。
来客仙亭閒伴鶴、泛舟漁浦満飛鴎。
台映碧泉寒井冷、月明孤寺古林幽。
回望四山観落日、偎林傍水緑悠々。
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by jbucm | 2016-01-25 09:30 | 中国語 | Comments(0)

詩経

こんにちは、周です。今回は「詩経」の話です。

「詩経」は孔子が編集したと伝えられる中国最古の詩歌集であります。この詩歌集は、最初は単に「詩」「詩三百」と称されていましたが、のちになって儒家経典に一つに揚げたところから、「詩経」と呼ばれるようになりました。同書は風(国風、民謡、恋歌など)・雅(雅楽、大雅と小雅に分かれる)・頌(祭祀に用いる神楽歌の歌詞、周頌と魯頌と商頌に分かれる)の三部分に分かれ、風の数量は最多(160篇)であります、収録された詩歌は全部で305篇にも及んでいます、古人は整数をとって「詩三百」と呼びます。「詩経」の中には、古代(周代)歴史の研究に欠かせない貴重な内容を数多く含まれ、世界文化史上にも計り知れない価値が有しています。「詩経」は包羅万象(内容が充実しておりあらゆるものを網羅している)の百科全書でもあり、今日に至るまで変わることがなく高い評価を受けています。

「詩経」には、多くの植物・動物の性状・産地・採集方法・食用季節などが収録・記載されています。これらの植物・動物のうち、百種以上は後世の本草学(薬用植物学)に転載され、薬用と認められています。例えば芣苡(車前子―オオバコ)、葛(葛根―クズの根)、薇(白薇―フナバラソウ)、芩(黄芩―コガネバナ)、勺薬(芍薬)、棗(ナツメ)。
また、古代の疾病に関する病名や証候も記事もあります。例えば痡(疲れて歩行不能)、瘨(癲狂―精神病)、噎(むせぶ)、曚(視力がよくない、はっきり見えない)、瞽(目が見えない人、盲人)。
衛生保健・環境衛生・害虫駆除に関しても記載があります。例えば髪曲局(固く束ねた婦人の髪型)、薄言帰淋(帰宅して髪を洗う)、洒掃(水を撒いて箒で掃く)、洒掃庭内(庭内に洒掃)、穹窒熏鼠(部屋を片付けて煙で燻して鼠を駆除する)。
このように、「詩経」は医薬著作ではないものの、医薬・保健・衛生に関する記述が少なくありません。

名前は「詩経」由来の一人・2015年のノーベル医学生理学賞屠呦呦(トゥ・ヨウヨウ)を紹介します。
屠呦呦の父親が生まれた我が子の泣き声を聞き、「呦呦鹿鳴、食野之蒿」(ユーユーと鹿は鳴く、野の蒿を食べる)を詠唱して呦呦と名付けました。屠氏の名前は、2000年以上前の中国古典・詩経と繋がっています。詩の続き「我有嘉賓、徳音孔昭」は、予め屠呦呦がノーベル受賞することを示します。偶然かもしれませんが、なんとも興味深いとこではないでしょう。
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by jbucm | 2016-01-11 09:30 | 中国の話 | Comments(0)

二十四節気―冬至

こんにちは、周です。今回は二十四節気―冬至の話です。

冬至は中国の旧暦の中で、非常に重要な節気で、伝統的な祝い日でもあります。「冬節」「長至節」「亜歳」とも称されます。約2500年前の春秋時代に、中国は太陽を観察して冬至の到来を測定できたのです。冬至は二十四節気の中で一番早く制定したもので、西暦12月22日或は23日です。古人は冬至について、こう言いました:「陰極之至、陽気始生、日南至、日短之至、日影長之至」。冬至以後の気候は最も寒冷の時期に入り、民間では、「冷在三九、熱在三伏」(三九は一番寒い、三伏は一番暑い)と言う諺があります。
(注:三九は冬至以後にやってくる第三度目の九日(27日間)を数え、二十四節気の大寒のあたり、西暦1月20日頃、冬季に最も寒い時期を意味します。三伏は2009年5月25日ブログをご参照ください)

冬至過節(冬至を祝う)習慣は漢代から始まり、唐・宋代では盛大な祝う行事をとして行われて、今日に受け継がれています。この日に家でご馳走を作って食べて祝います。全国各地(東南西北の各地)で異なる「食」習慣があります。北方は羊、餃子、ワンタンを食べ、南方は米団(米で作られた料理)、長線面(麺類)を食べます。各地では「祭天祭祖」という行事もあります。

ここで唐代詩人―白居易の詩を紹介します。

邯鄲冬至夜思家

邯鄲驛里逢冬至
抱膝灯前影伴身
想得家中夜深坐
還応説着遠行人


邯鄲で冬至の夜家を偲ぶ

邯鄲の旅館で冬至にあう
灯りの前で(一人)膝を抱き、伴に居るのは自分の影のみ
思えば故郷にいる家族の皆が、夜深くまで坐り
やはり旅人(私)の噂をしているに違いがない

邯鄲:中国河南省にある古都
驛:宿場(旅館)
遠行人:旅人、ここは自分を指す(自分を見て言う)
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by jbucm | 2015-12-21 09:30 | 中国の話 | Comments(0)

武則天(則天武后)

こんにちは、周です。今回は武則天(則天武后)の話です。

武則天(624~705年)は、并州文水(今の山西省の太原市文水)人で、唐代初期の女性皇帝で、本名武曌です。中国の「牝鶏司晨」(pìn jī sī chén めんどりが時を告げる、〈喩〉女性が権力を握る、かかあ天下である)を代表する人物(漢の呂太后、唐の武則天、清の西太后)の一人であります。しかし、呂太后・西太后は母親(呂太后は息子の恵帝の母親である、西太后は同治帝の母親である)として権威を振ったのに対して、武則天は中国史上ただ一人女性皇帝となりました。政治は男性が行うものという中国社会で、女性が政治の表舞台に立つのは大変なことであり、武則天と呂太后・西太后との立場の差は十分に理解されなければなりません。在位期間(690~705)、国号を(武)周とし、聖神皇帝と呼ばれていましたが、死後の諡号(おくりな)は天后・大聖天后・則天皇后・則天順天皇后など、「牝鶏司晨」を嫌う中国為政者の心情が表われています。

彼女は美貌と才能に恵まれ、636年に太宗の宮中に居ました。太宗死後に出家していたが、652年頃に召され、高宗(太宗の息子)の昭儀(後宮の地位の一つである、皇后を頂点とすると、以下に夫人・嬪・女官がある、昭儀は嬪のうちの一つである)を与えられました。655年には、ライバルの王皇后を倒して皇后となりました。武后は高宗よりも4~5歳年上で、身体が弱く持病の高宗(2011年6月13日のブログ記事をご参照ください)に代わって政治をとるようになりました。女性は政治の場に出られないので、皇帝の後ろに座り、「垂簾聴政」(簾を垂らし、大臣から姿を隠して、皇帝と大臣の会話を聞いて指示を与える)を行いました。

武后は必要であれば、我が子でも手にかける・果断な性格を持っていた人です。次々に実子の李弘・李賢・李顕(中宗)・李旦(睿宗)を皇太子に就け、批判的な言動をとった李弘の急死(武后に毒殺されたとの説もある)と李賢の自殺に追い込まれた。高宗没後、李顕(中宗)が即位しましたが、生母(武后)と対抗し、即位後わずか54日で廃位されました。李旦(睿宗)を傀儡皇帝として政治実権を握りました。690年に睿宗を退位させ、自ら皇帝となりました。即位後、自身の正当化に宗教や祭祀を動員し、道教重視の唐朝に対して「明堂」という建物を建てて、自分自身を弥勒になぞらえ仏教を宣伝しました。その時期は仏教を道教の上に置かれ尊崇されました。また密告奨励して酷使を使って政敵を次々に殺し恐怖政治も行いましたが、一方で狄仁潔のような優れた人材を登用されました。

699年、李顕は武則天により再び立皇太子され、705年に大臣(狄仁潔は晩年の武后に李顕を皇太子への復活を決意させる立役者である)や将軍に迫られた武則天は李顕に譲位し、唐の国号を復活させられました。
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by jbucm | 2015-12-07 09:30 | 中国の話 | Comments(0)