梨膏糖

こんにちは、周です。今回は梨膏糖の話です。 

初唐の政治家・魏徴(580~643年)は親孝行な人だそうです。彼の母親は長年に咳嗽気喘(病)を患って、あちらこちらで診療を受けましたが、効果はなかったです。彼は母親の病情を凄く心配していました。魏徴の母親が病気であることを知っている唐太宗(皇帝)・李世民は、御医(侍医)の往診に行かせました。御医は細かくの望・聞・問・切診をした後、川貝・杏仁・陳皮・半夏など中薬(生薬)処方しました。老夫人は少し変わり者で、煎じ薬を一口飲んだら、「苦」と言いながら全然飲まないです。周囲の人は長いこと説得しましたが、老夫人はどうしても言うことを聞かないです。息子の魏徴もどうしょうもなく、慰めるほかないです。

翌日、老夫人は魏徴を前に呼んできて、梨を食べたいと言いました。魏徴は、すぐ老夫人の世話する人を買いに行かせました、買ってきた梨の皮を剥き、食べやすいサイズに切り、老夫人に食べてもらうとしました。だが、高齢の老夫人は歯がほとんど抜け落ちていて、梨も一切りだけ食べたら食べません。これは又も魏徴に困らせています。

梨を煮て加糖して梨汁を飲ませたら、いいかもしれませんと魏徴はそう思いました。老夫人は一口加糖した梨汁を飲んだ後、好喝!好喝!(美味しい)と言いながら、飲み干しました。薬効と美味しさを増すため、梨汁に処方された中薬の煎じ液・増量した砂糖を入れて一緒に煎じました。連日の疲れで薬を煎じる最中に魏徴がウトウトして寝てしまいました、起きて蓋を開けたら吃驚しましたー糖塊(砂糖の塊り)となっていました!!その糖塊を試して食べたら美味しい!香ばしくて甘い、これは行けると思いました。魏徴は母親に糖塊を食べさせました。老夫人が喜んで食べました。半月糖塊を食べ続きました、すると食事も美味しく感じて食べ、咳嗽気喘も治りました。

魏徴は中薬と梨の煎じ汁(糖塊)で母親の病を治った、という事があっという間に広げて行きました。以後、中医師(医者)もこの治療法を用いて良い効果が得られました。梨膏糖と呼ばれます。
[PR]
by jbucm | 2017-02-27 09:30 | 中医学 | Comments(0)

貝母の由来

こんにちは、周です。今回は中薬―貝母の話です。

ユリ科Liliaceaeのアミガサユリ属植物各種の地下鱗茎、きわめて多種基原の中薬であります。川貝(青母)と浙貝(大貝・象貝)の2種があります。川貝は苦・甘、微寒で、浙貝は苦・寒で、ともに肺・心経に帰経します。化痰止咳・清熱散結作用があります、熱痰・燥痰の咳嗽、瘡癰瘰癧、乳癰に有効であります。川貝は潤肺化痰に長じて肺虚久咳・痰少咽燥に適するのに対して浙貝は苦寒で開泄や清火散結の力が強く、外感風熱や痰火鬱結による咳嗽に適します。両者とも清熱散結作用がありますが、浙貝のほうが優れますので、用途は広く、瘡癰瘰癧・乳癰に用いられます。烏頭に反しますので、要注意です。
f0138875_1510034.jpg


貝母の由来を紹介します。
大昔、ある賢恵美麗的女子(善良で聡明な女性)は結婚した後、夫婦二人は愛し合っていますが、なかなか子に恵まれなかったですので、姑に主人との離婚を迫られました。某日、こっそりと泣いている彼女を通りかかった郎中(医者)は事情を尋ね・診察した後、ご主人にこう言いました:あなたの夫人が懐妊できない理由は、体内に痰結があるからです。今、私が妊娠させる簡単な方法を教えますー毎日ある草薬(生薬、のちに貝母と称するもの)を煎じて飲むこと。私は保証します、三ゕ月を飲み続ければ絶対懐妊できますよ。早速、翌日から教えられた草薬(地下の鱗茎)を採りに行き、毎日続けて三ゕ月間煎じて妻に飲ませました。そして懐妊して、1年後に元気な子供(男の子)を産みました。

子息が産まれましたので、一家(特に姑)はお喜び!
皆にこの草薬の名前を聞かれました。この草薬は親(=嫁)の懐妊を補助してからこそ宝児子(息子は宝とされる)を産みましたので、貝母と呼びましょう、と姑が言いました。
[PR]
by jbucm | 2016-03-07 09:30 | 中医学 | Comments(0)

諸葛亮と行軍散

こんにちは、周です。今回は諸葛亮と行軍散の話です。

行軍散は、牛黄・珍珠粉・麝香・氷片・雄黄・硼砂(炒)・姜粉・硝石(精製)などから組成されます。中暑昏暈・腹痛吐瀉・熱証煩悶などの症に用いられ、用量が少なく(0.3~0.5g)、内服・外用どちらもできて、しかも薬効がよいです。この薬は約1700年前から大衆薬として使われ、今も愛用されています。
f0138875_1523584.jpg


諸葛亮と行軍散の関わりを紹介します。
三国時期、蜀国の政治家・軍事家である諸葛亮が蜀の大軍を率いて威風堂々と魏国へ行進し、魏軍と開戦しようとしています。当時の気候は炎熱酷暑(厳しい暑さ)であり、その上に長期間の行軍で、暑病を発病しました。多くの将士(将校と兵士の総称)は倒れ、戦闘力が低下しました。
諸葛亮は、その事を苦悩しました。いろいろと智慧をしぼって考えましたー中暑を予防や治療する方薬を創製する?すると、随営医生(従軍軍医)らの力を合わせて携帯便利、内服・外用の両用することができる・消暑解毒という作用がある「諸葛亮行軍散」(行軍散ともいう)を創りました。
この行軍散を服用した蜀の兵士達が暑病を治癒して元気になり、闘志を燃やし、魏軍を進攻して勝利を収めました。
[PR]
by jbucm | 2015-10-05 09:30 | 中医学 | Comments(0)

乱世姦雄

こんにちは、周です。今回は「子治世之能臣、乱世之姦雄」(あなたは治世の能臣、乱世の姦雄)を紹介します。

『魏志・武帝紀』にあり、曹操に対しての文人・許劭の言葉であります。子とはあなた、能臣とは才能ある臣、姦雄とは悪知恵に長けた英雄を指します。許劭は曹操を「乱世姦雄」と評した第一人であります。

許劭(生没年不詳)は字を子将といい、東漢末年の文人で、汝南郡平与(今の河南)の人で、人物評を得意としました。《辞海》に彼に対しての評価は「有名於世、喜評論人物」であります。史書には「少峻好名、好人倫」と称賛します。その人柄は人々に敬愛されていました。

当時の汝南郡の文人は、毎月の月初め(月旦)に行う人物評の会は有名でありました。のちに、人物評のことを「月旦」というのは、許劭が月初めに開いた人物評の会にちなみます。許劭が率いた「月旦」人物評は公正性・正確性を有するので、官府(政府機関)も人物評を見て官職を与えます(適才適用)。諸国の領主は許劭の好評を博した人物を争うようになっていました。「月旦」が有名なのを聞いた青年の曹操も許劭のところへ行き、自分の人物評を乞いました。しかし、許劭は口を開こうとしません。許劭は曹操の顔を一目見て「この男は、ただの人物ではない」と思いました。
曹操の再三問いと威嚇に、許劭はようやく重い口を開き、「子治世之能臣、乱世之姦雄」(君は平和な時なら才能ある官吏で、乱世には姦雄になるでしょう)と評しました。「乱世の姦雄」と評された曹操が大笑いながらその場を去りました。

曹操が「乱世の姦雄」をどう理解したのは、後世は知りません。
[PR]
by jbucm | 2015-07-06 09:30 | 中国語 | Comments(0)

鶏肋

こんにちは、周です。今回は鶏肋を紹介します。

鶏肋とは鶏ガラを指します。周知の通りスープなどの材料で、長時間煮ると美味しいダシをとることができます。中国料理やラーメンに欠かせない材料の一つであります。昔はしゃぶって食べる事もありました。しかし、肉は僅かしかついていないので、満腹できないから「食之無所得、棄之可惜」(大して役に立たないが、捨てるには惜しいもの)を指して「鶏肋」というようになりました。

初出は『三国志・魏志・武帝紀』に記録がある曹操の言葉であります。建安24(219)年に始まって曹操が生涯のライバルである劉備と漢中の領有地をめぐって対陣しました。定軍山の戦いで蜀の老将軍・黄忠が、魏の屈指の勇将・夏候淵を破ってから局面が大きく展開しました。曹操は自ら大軍を率い出陣しました。しかし、魏は蜀に敗れ、曹操も危険な目に遭いました。曹操は内心、収兵(兵を収める)して帰ろうとしたが、蜀軍の笑いものになることを恐れて決断できずにいました。

そんな時、曹操は夕食の最中も鶏湯を食べながら、進退を思考していました。そこへ夜の口令(伝達事項の際に使う暗号や言葉)を聞きに夏侯惇(夏候淵の一族)が入ってきます。曹操は夏侯惇を前にしても、碗の中の鶏ガラを見ながら「鶏肋、鶏肋……」とつぶやきます。「言語明瞭、意味不明」のまま、夏侯惇が全軍に「鶏肋」と伝達しますと、曹操の側近の一人・主簿(文官)の楊修は少しも慌てず撤退の準備を始めます。驚いた夏侯惇が理由を問うと、「漢中はまさに鶏肋のようなものだ、惜しいが撤退するつもりだろう」と解釈します。夏侯惇は「公はまことに魏王の肺腑を知るなり」と感心して部下も撤退準備を始めさせます。心煩意乱(こころがもだえ乱れる)の曹操は眠れず軍帳(行軍の時に泊まるところ)を出て軍営(外)を巡回します、全軍が撤退準備をしていることに大いに驚き、夏侯惇を問うと楊修が鶏肋に対する定義を判りました。楊修に対して「お前はどうして流言を広めて擾乱軍心(軍心を乱す)のか」と激怒し、楊修を処刑させました。

楊修は才能がある人です。惜しいですが、忌才(自分以上の才能がある人を嫌う)の曹操が言った鶏肋で落命しました。
[PR]
by jbucm | 2015-06-22 09:30 | 中国語 | Comments(0)

藕節治痢

こんにちは、周です。今回は藕節治痢(藕節で下痢を治す)の話です。

藕節は、スイレン科Nymphaeceaeのハス Nelunbo nucifera.の根茎(藕)の節部です。秋冬に藕(蓮根)を収穫する際、節部を切り取って、キレイに洗って干したものであります。性味は甘・渋・平で、肝・肺・胃経に帰経します。収斂止血化瘀作用があり、収斂止血兼化瘀に働き、止血して留瘀の弊害がありません。各種の出血証(吐血・咯血・尿血・便血・崩漏下血)に用いられます。生藕節は止血化瘀に、藕節炭(炒炭)は収渋止血に働きます。

f0138875_15243883.jpg


民間では、廉価で・しかも入手し易い藕節を利用する経験方が数多くあります。例えば、藕節6~7個を杵で突き砕く、適量の黒砂糖を加え煎じて服用します、この方は止血効果があります。藕節と緑茶ブレントして、血液の浄化・消化の促進に効果があります。

≪本草綱目≫に、こう記載してあります:能止咳血、唾血、血淋、溺血、下血、血痢、血崩。

藕節治痢の故事を紹介します。
南宋隆興元年に、高宗趙構が引退し、孝宗は皇位を継承しました。孝宗皇帝は生活奢侈で、山珍海味(山の幸・海の幸)を食べ尽くして飽きましたので、今度は湖蟹を食べたいです。暫くして、毎日西湖の蟹を食べ続けて、痢疾を患い(1日数回瀉下する)ました。御医(皇帝の専属医者)に「冷痢」と診断されて各種の薬を投与されましたが、効果はありませんでした。朝廷と父親の高宗は不安となり、高宗は「冷痢」を治療する特効薬を探すため、微服私訪(普段の格好で民間を訪問する)しました。
ある日、高宗が薬市場に行きました。その市場に沢山の藕節を売っていて、皆が藕節を購入する光景を見て、高宗は薬師(薬剤師、中医師)に、「藕節を買って何に使う?」と聞きました。薬師は、「今痢疾は流行していて、藕節は痢疾を治療する良薬ですよ」と答えました。その答えを聴いた高宗は、薬師を皇居に居る孝宗に案内し、孝宗を診察してもらいました。薬師は、孝宗を診察した後、こう言いました:「陛下過食湖蟹、傷及脾陽、故成冷痢。正可用藕節治之」(陛下は湖蟹を過食して、脾陽を損傷され、冷痢となった。藕節を使い冷痢が治せる)。すると、孝宗は薬師に言われた通りにして(藕節を金杵で突き砕く、熱酒で調服する)、下利が治りました。
[PR]
by jbucm | 2015-05-18 09:30 | 中医学 | Comments(0)

白眉(馬良)

こんにちは、周です。今回は白眉(馬良)を紹介します。

白眉とは、白い眉のことを指します。多くの中で一番優れたものを白眉というのは『三国志』の故事に因みます。

中国には、色に因んだ故事や格言が多く、中には日本でも用いられているものがあります。例えば、北宋の政治家・詩人王安石(1021~1086年)の詩(咏石榴花)に、「濃緑万枝紅一点、動人春色不須多」という表現があります。現在では、多くの男性の中で女性一人だけが混じって活躍することを指して、紅一点と言います。

紅一点と同じく、現代でも頻繁に用いられる色に因んだ故事に白眉があります。この白眉は、前回紹介した馬謖の兄で、諸葛亮の心腹(腹心)であった馬良という武将に因んだ故事であります。

襄陽郡宜城県の名門・馬一族には、五人の兄弟があり、兄弟五人とも大変優秀でありました。五人の中で最も優れたと言われたのは馬良でした、馬良は眉が白かったです。このことから、後世、多くの中で一番優れたものを白眉というようになりました。

荊州を奪取した劉備は、馬良を招いて留守を任せ重職に任命しました。馬良は劉備の命令で呉に使者として赴いた時、孫権を感服させたという逸話も残りました。武将としての馬良は、周辺の少数民族(五渓)の討伐に軍功を挙げましたが、章武二年(222年)の夷陵の戦いの際、落命しました。

生前、馬良は諸葛亮と個人的な親交があったらしいです。劉備が関羽・張飛と義兄弟の盟約を結んだように馬良と諸葛亮も同様の盟約を結んだかもしれません。また、『三国志演義』に、腕に毒矢を受けた関羽が、囲碁をやりながら名医の華佗(後漢末;109?-207?)の治療を受ける場面があります。このようなことが、実際にあるかどうか疑問が残るが、囲碁の相手として登場する馬良であります。中国も日本も、この場面は盛んに絵描かれたが、関羽の囲碁の相手の眉を、白く描いた作品もあります。

馬良の死後、諸葛亮は馬良の弟を重用するという誤りを犯し、前回紹介した「孔明揮涙斬馬謖」(2015年2月16日ブログ記事をご参照ください)がありました。
[PR]
by jbucm | 2015-03-09 09:30 | 中国語 | Comments(0)

益母草の由来

こんにちは、周です。今回は生薬―益母草の話です。

益母草は、シソ科Labiataeのホソバメハジキ Leonurus sibiricus L.など全草を乾燥したもので、婦人病治療に効果(母の益になる)のあることに由来し、坤草・茺蔚草とも呼ばれます。中国の各地に分布します。性味は辛・苦・微寒で、心・肝・腎経に帰経します。活血化瘀・利尿消腫作用があります。血脈阻滞の月経不調・経行腹痛および産後血滞の腹痛・悪露不尽に用いられます。婦科経産に最も適用し、要薬であります。跌打損傷の瘀血腫痛・小便不利・水腫・瘡癰にも有効します。

≪本草綱目≫に、こう記載してあります:破瘀破血、調経解毒。治胎漏産漏、胎衣不下、血暈、血風、血痛、崩中漏下、尿血、瀉血、疳痢痔疾、打撲内損瘀血、大便小便不通。

益母草の由来を紹介します。
十二歳の息子と母が居ました。十二年前の産後に母は病(瘀血腹痛)を患いましたが、貧困のため医者の診療を受けず、体質が徐々に虚弱になりました。ある日、息子が遠方の老郎中(年配の医者)の往診を要請しました。金が無く診療料の支払はできないが、老郎中は、あの子の孝心(親孝行)に感動されました。そして、あの子を連れて山へ行って薬草(のちに益母草と呼ばれるもの)を採集しました。以後、息子は母のため毎日山へ行き、その薬草を取り、煎じて母に飲ませました。10日も経たないうちに、母親の調子が良くなりました。
f0138875_14392554.jpg


附:茺蔚子
益母草の果実で、小胡麻・三角胡麻とも言います。効能は益母草とほぼ同じで、涼肝明目・益精養血作用があり、肝熱頭痛・目赤腫痛、肝腎不足による翳膜(角膜混濁)などに用います。
[PR]
by jbucm | 2015-03-02 09:30 | 中医学 | Comments(0)

中国のお正月

f0138875_10582535.jpg


今日は、旧暦の1月1日です。中国のお正月です。この時期は、大勢の出稼ぎの人が故郷へ帰省し、家族団らんや親族訪問し、色んな伝統料理や伝統劇などを楽しんでいます。

さて、クイズです。中国の大晦日によく食べるものは日本にもとても人気があるもので、それはなにでしょう?お答えはのちほどに致しましょう。

大晦日の夜に、テレビ番組の中、一番視聴率が高いのは、日本のNHKの紅白歌合戦のような番組です。この番組は中国の中央テレビ局が開催される「春晩」と親しく呼ばれでいます、それは、「春節聯歓晩会(親睦パーティー)」の略称です。全国の有名な歌手や芸能人が集まり、夕方8時から、深夜1時ごろまで、5時間に渡って、大いに腕前を見せますが、毎年ほぼ同じような内容で、新奇のものがないため、次の日から、ネットで毒舌がをふるう人が多いです。民衆の好みがさまざまで、すべての人に満足してもらえないのは当然です。おそらく、視聴率が高いのは、他に見るものがあまりない、それと、後で毒舌のネタにするものを見つけるのも一つの楽しみではないかと思います。まあ、後で指摘されることを覚悟しながら一所懸命、この番組を企画してくれるスタッフ達や、芸を披露してくれる芸能人達に感謝したいです。

では、上のクイズの答えです:餃子でした。中国の大晦日の夜に餃子を食べる習慣は、餃子の形が昔のお金である馬蹄形の「元宝」に似ていることからきているようで、年越しの際、餃子を食べれば「発財」(財をなす)に通じるということです。新年の幸運を呼ぶということでしょう。

f0138875_1059218.jpg

f0138875_10594119.jpg

f0138875_1103033.jpg


最後に、中国の新年のご挨拶をさせて頂きます:新年快楽!恭喜発財!

(李)
[PR]
by jbucm | 2015-02-19 10:30 | 中国の話 | Comments(0)

孔明揮涙斬馬謖

こんにちは、周です。今回は故事「戮謖以謝衆」(泣いて馬謖を斬る)「孔明揮涙斬馬謖」(涙を揮いて馬謖を斬る)を紹介します。

『三国志』に関わる故事、名言の中でも最も有名なものの一つです。信頼している部下を、規律の厳正を守るために私情を排して処分することを意味します。

出典は『蜀書・諸葛亮伝』です。
建興六年(二二八年)、国力を蓄えた蜀は、諸葛亮(孔明)の進言で北伐の軍を起こしました。総指揮は諸葛亮自身であり、出兵して祁山に向かいました。蜀にとってはこの重要な戦いであり、軍事的な要地・街亭の前線指揮官を命じられたのが、若き将軍・馬謖(一九〇~二二八)でありました。『三国志』には馬姓の武将が多数登場しますが、馬謖は襄陽郡宜城県の名門・馬一族の出身で、劉備の重臣である・名前は馬良という兄が居ます。弟の馬謖は才気すぐれ、兵術を得意としていたが、やや弁舌のみに頼りと、劉備は彼の欠点を熟知していたようで、諸葛亮に後事(決して馬謖を重用するな)を託しました。

しかし、諸葛亮は、彼を自分の後継者として信頼していました。劉備の死後、しばしば出兵して魏と戦ったが、馬謖は彼の参謀に抜擢されていました。建興六年、孔明は出兵して祁山に向かって魏を討ちました。歴戦の将、魏延や呉壱らが従軍しました。人々は、彼らのだれかを先鋒としたらよかろうと論じたが、孔明は人々の考え方と相違して馬謖に命じて大軍を率いて先鋒とし、魏将張郃と街亭で戦わせました。ところが馬謖は諸葛亮の主旨を反して布陣したため張郃に破られて、部下の兵卒は四散しました。諸葛亮は前進基地を失い、蜀の漢中へ退却しました。馬謖は牢に入れられ死にました(馬謖は諸葛亮に処刑された、との説がありました)。孔明は彼のために涙を流しました。・・・・・・謖は三十九歳でした。

『三国志』に、こう記しています:
建興六年、亮出軍向祁山。時有宿将魏延呉壱等、論者皆言以為宜令為先鋒。而亮違衆抜謖、統大衆在与魏将張郃戦於街亮、為郃所破。士卒離散。亮進無所拠退軍還漢中。謖下獄物故。亮為之流涕。・・・・・・謖年三十九。
[PR]
by jbucm | 2015-02-16 09:30 | 中国語 | Comments(0)

国立北京中医薬大学日本校が運営するブログです


by jbucm