こんにちは、今回は「中薬と皇帝」の話をします。
古代、ある制度がありましたー皇帝または孔子の名前は、他人に使わせてはいけませんでした、もし、こんな事情がありましたら、易字(字を変える)、改読(読み方を変える)、缺筆(書き方を変える)、空字(字を空く)などの方法で代替します。例えば唐代の柳宗元が著した《封建論》の中で、「民」は「人」を、「治」は「理」を代替します。それは唐太宗(李世民)、唐高宗(李治)を避けるためでした。文章を書くときではなく、開処方(処方する)ときも避けなければなりません、すると幾つの中薬も名前を変えられました。例えば、健脾止瀉作用ある「山薬」、元の名前は「薯蕷」と呼ばれ、宋代の寇宗爽が著した《本草衍義》に、初めて記載されました、「蕷」は唐代宗(李豫)と同音(同じ発音)ですので、「薯薬」に改名されました。ところが、何代か経過しまして、宋英宗(趙曙)が登位(即位)し、「薯」「曙」同音ですので、しかたがなく、また改名しなければなりません。現在も使われている「山薬」という名前は、その時に変えさせられたと言われています。
ところが、気にしない皇帝もいました、南北朝時代・宋武帝(劉裕)はその一人でした。治傷良薬の「劉寄奴」は、彼の乳名(小さい頃の名前)から命名されました(それについて故事もありますが、ここで省略させます)。また、皇帝の寵信(寵愛し信用する)を得た中薬もあります。例えば、骨折筋損を治療する良薬―「骨碎補」は、五代十国の後唐明宗(李嗣源)に命名されました(これも故事ありますよ)。
最も面白いのは、皇帝のお陰で、成名した(有名になった)「何首烏」です。そのエビソートを紹介します。明代の嘉靖皇帝・明世宗(朱厚徳)は、最初子供ができないため、天下の得子良方(子供がつくれる方剤)を求める詔書を発布しました、何首烏という人が応召し、彼は「何首烏」を要薬として、「七宝美髯丹」を作って、皇帝に飲ませました。皇帝が暫く「七宝美髯丹」を服用され、喜得龍種(子供ができました)と共に、髪も黒くなり、体も強くなり、在位45年間でした、そして「何首烏」は、名揚天下(有名)になりました。
(周)