こんにちは、周です。今回は薬店の由来を話します。
中医学史上、初めて官営の薬店は、宋の時代・神宗熙寧九年(1076年)に、有名な改革家であった王安石から創られました。当時、色色な事情があって、王安石自身も久病を患い、辞職しました。政界を引退後、彼は首都・開封で「太医局熟薬所」、謂わば、現代中薬店の前身を創りました(「買薬所」とも言う)。
最初、中薬は専ら取り立ての新鮮な草薬を用いられていました。以後、都会人の需要に応じ、段々、草薬を採り、都市に持って行って販売するようになりました。保存や保管に便利さを図るために、売買両方とも、新鮮な草薬を乾燥させるのを望みました。宋の時代の前には、薬材の採集・加工・売買は、ずっと「個体貿易」(個人経営)の形を主としていました。
「王安石変法」期間中、自然災害は全国各地で発生し、缺薬少薬(薬が足りない、少ない)という状況の中、不道徳的な行為―偽薬と劣等薬を販売され、多くの民衆を苦しみました。王安石はその事情を知り、心が痛みました。彼はある提案を採納しました。その提案とは、①国家が薬を管理機構の成立、その機構の元で薬を生産と販売し、個人の経営と他の部署の生産と販売が許さない②剤型(製剤の様式)を研究し、丸・散・膏・丹剤等の規格を統一され、生産し、無料で災害地区の民衆に配る。
「太医局熟薬所」の成立後、患者に方便をもたらすだけでなく、朝野の財政収入も増加させましたので、良い評価が得ました。「王安石変法」は失敗で終わったが、「熟薬所」は商売繁盛の状態を保たれました。宋徽宗崇寧二年(1103年)までに、7店舗の「熟薬所」を新たに開設しました。数年後、その7店舗の「熟薬所」の中、5店舗は「医薬恵民局」という名前に変更し、2店舗は「医薬和剤局」に変更しました。以後、全国各地で類似した「薬局」が雨後の筍のように出現し、のちに、社会的分業が細かくなり、製薬と売薬(薬を販売する)が徐々に分離され、いまの形の「薬店」を形成され、「売薬」だけをする業となりました。