こんにちは、周です。今回は医家―華侘の話です。
華侘は字を元化と称します。沛国譙(現在の安徽省毫県)人で、漢の永嘉元年(紀元145年)に生まれ、建安13年(紀元208年)に没しました。
彼は長年民間の医者として、安徽・山東・江蘇・河南などの地区を廻り、病人を救い、行き先で民衆の深い信頼と敬愛を受けました。名声が上がった晩年に、彼は後になった魏王―曹操から招致され、曹操の頭痛(頭風病)を治癒させました、曹操は華侘の医術の腕に惚れ込んで、自分の侍医として宮中にいるように言いましたが、彼は宮仕えのを嫌い、休暇を取り、故郷に帰ってしましました。曹操は数回にわたって、侍従を派遣し、戻るように説得しましたが、華侘は最後まで硬く断って、ついに捕えられ、死罪に処せられ、曹操に殺されてしまいました。
獄中の華侘は著わした医学書を獄吏に手渡しましたが、その著書を収蔵・保管を頼んだ獄吏は、法を恐れて、応じませんでした。やむ得なく華侘は、それらの著書を焼くこととなってしまいました。このような痛恨の経緯がありましたので、彼の著作は後世に流伝することがありませんでした。
華侘は内科・外科・婦人科・小児科・針灸科の各科に精通し、中でも外科分野では、その卓抜した手技で名を成していました。「麻沸散」という麻酔薬を発明し、その「麻沸散」を用いて、開腹手術を手掛け、いわゆる全身麻酔手術を創始したのであります。≪三国志≫華侘伝や≪後漢書≫には、華侘の疾病治療に際してのカルテが紹介されています。これらの症例により、同時の彼の診断・治療法のレベルが、高度なものであることを察せられました。例えば、治療中に、鍼灸・湯薬で治せない腹部疾病の患者には、先用酒沖服麻沸散(先ず酒を以って麻沸散を服用します)、酔って感覚を失うまでを待ち、腹部の手術(腹背を刳破=裂き破る、積聚=腹内の腫塊・腫瘤)を実施します。もし胃腸に異常あれば、則ち断裁・湔洗し(=すすぎ洗う)病を取り除きます。最後は縫合し、神膏(=不思議な効能を持ち薬膏)を以って貼ります。4~5日間を経ちますと、傷口癒え、1ヵ月の間に治癒しました。
華侘の外科手術は、歴代から高く評価されています。明代の陳嘉謨の≪本草蒙筌≫は、≪歴代名医図賛≫の中の1つ詩を引用して概括してあります:「魏有華侘、設立瘡科、剔骨療疾、神効良多」。後世の人々は、彼のこのような外科での貢献に讃え、「外科鼻祖」と称します。
殺害されてから1700年間を経って今も、民衆が彼の遺徳を記念するために、江蘇省の徐州に墓、沛国に華祖廟(寺)を建てられました。その寺中に「対聯」があります:
「医者刳腹、実別開岐聖門庭、誰知獄吏庸才、致使遺書帰一炬。
士貴潔身、○(山の下に己)屑侍奸雄左右、独憾史臣曲筆、反将厭事謗千秋。」