二 『黄帝内経』の作者
古くから、『黄帝内経』の作者は黄帝(こうてい)という人物だと思われる人がいたが、後人の研究によると、『奇恒』、『五中』、『陰陽』、『従容』、『揆度』、『脉要』、『上経』、『下経』など『内経』が成編される前の古医経著作から引用されたとみられる他に、秦漢医学文献の本来面目もかなり保たれていたという。なお、『内経』の一部は後人が増補されたとみられる。内容に学術観点の分岐や矛盾しているところがしばしばあることも、『内経』の成書は一人ではなく、しかも同じ時期、同じ地域でもないとも分かった。『内経』は相当長い時期のうち、多くの医家達の経験のまとまりだと言えるのである。
黄帝について、戦國秦漢時期の多くの史学家が、古代の帝王だと言っていたが、実際は、黄帝とは、一人の人間ではなく、原始社会末期の一つの氏族で、中国の西北方位に居住していた。『中国通史簡編』にはこう記載してある、「伝説では、黄帝は涿鹿(現在河北省宣化市の鶏鳴山)の山の奥に居住したことがあり、よく移動したりして、遊牧の生活をしていた。のちに九黎族と炎帝族を打ち負かし、次第に中部地区にて定居した。」春秋時期に到ると、この氏族はまた「華族」と称され、中華民族の先祖となった。河南省澠池県仰韶村にあった新石器時代後期の遺跡から出土された石器や骨器、陶器などの文化財を見ると、上記の説明はほぼ正確だと分かるのである。
黄帝氏族は華族の先祖であるため、その文化は華族の発展に勿論重要な影響を与えられた。そのため、歴代の人々も自分は黄帝の子孫であることに誇りを持っている。なお、根源を明らかにするため、よく文物などを黄帝の名前をかたっていた。こういう背景の下、当時の学者らは、自分の学説をより世間の人に受け入れて貰えるため、その著作を「黄帝」の名を借りたという。これは、当時の風習となった。『淮南子』にこういう記載があった、「世の中の人は、古代を尊い、現代を卑しめる。故に教義する者は、必ず神農や黄帝の名をかたる。それで説得力が増す」。『内経』を黄帝の名付けられたのは、こういう背景があったのである。
(李)