こんにちは、周です。今回は中国最初の医学校―太医署についての話です。
中国古代の医学教育は、主として師弟関係による個人伝授で実施されました。南北朝時代の宋文帝・元嘉二十年(443年)、太医令(官名、医師を掌管する長官)であった秦承祖が医学教育の確立を提唱し、これを広く教授することを、朝廷に提案する同時に、太医博士・太医助教授などの医官を設けさせました。これは中国で最初に国家による正式の医学教育の始まりであります。しかし、この教育制度も、文帝の逝去と共に、衰退してしまいました。隋代で、全国の最高医学教育機関として、「太医署」(現在の医学教育行政機構に相当する)を設立されました。太医署に、主薬2人、医師200人、薬草園師2人、医師博士2人、助教(助手)2人、按摩博士2人、などを有していました。但し、規模の大きさ・設備の不備さから見ますと、太医署は、正規の医学校ではありませんでした。
中国の歴史上最大の影響力を持った国家医科薬科大学に相当する機構は、唐代の高祖武徳七年(624年)、長安で設立された「太医署」であります。唐の太医署には、行政・教学(教務)・医療・薬工(およそ、現在の薬剤師)という4大部門を設け、現在の医科大学の構造と相似しました。医学部と薬学部があります。医学部には、更に4学科に分けられます:医科・鍼科・按摩科(傷科を含む)・呪禁科。その4学科の中で、医科は最大の学科でありました。厳格な入試制度、修業年数(年限)、学習カリキュラームも規定され、入学後は毎月・毎季・毎年にテストがあり、不合格者には、直ちに退学させました。この考査制度により、学生の知識や資質を評価できたばかりでなく、人材の発掘・育成、もしくは選抜・淘汰を適正に図ることができました。
中国の最初の医学校であった唐の太医署は、唐の時代の多くの医学人材を育成し、以後の歴代王朝も唐太医署に類似の医学校を設立しました。宋代(1102年)、医学校は「国子監」(現在の教育部に相当する機構)の下で管轄させられました。元・明・清の時代の医学校規模は、大きな変わりがなく、唐の太医署に似ていました。歴代名医の多くは、医学校の出身でありました。例えば、宋代の朱肱・陳自明、元代の危亦林・斉徳之、明代の徐春甫・薛己。
世界各地では、唐太医署の形式を模範して、医学校を設立しましたが(例えば、朝鮮・日本)、規模・範囲・形式などから見ますと、正式の医学校と言えませんでした。唐太医署は、当時の中国社会の政治・経済・文化の発展及ぶ官吏の実力登用を図った、所謂「科挙」の導入と無関係ではありません。
太医署は、世界各地でも最古の医薬科大学であります。ヨーロッパにおいては、イタリアのサレルノ医学校が九世紀初めに設立されたと推定され、医学教育は十一世紀に、その黄金時代を迎えました。しかし、中国では、イタリアに先立つことと500年余に太医署を設立したのであります。