こんにちは、周です。今回は歴代の女医家を紹介します。
淳于衍
女子の行医(医を業をとしている)は、漢の時代からとされています。当時、民間出身者の女医の一人である淳于衍は、「医術高明」との評判で、宮廷女医として招集に応じられました。彼女は系統的に中医学を伝授する専門医学学校を卒業生ではないが、経験済みで有効な医療方法の持ち主であります。脈診によく通じ、医薬にも通暁して、「女中扁鵲」と称されます。
義妁
西漢の時代、河東人(中国山西省)、中国歴史上の初めて有名な女医家です。幼少から薬草に興味があり,早くも10代から薬草を採集する為、山に入り、村人の外傷を治療しました。謙虚で、あらゆる方法を使い、当時の経験豊富な「郎中」(医者)に師事し、医薬知識を勉強し、経験を積み重ねました。その医術は、漢武帝に知られ、皇宮に招集されました、女侍医として、皇太后の病を治療した後、皇太后との信頼関係を築きあげました。
鮑姑
晋の時代の女医家で、名は潜光です。広東省南海太守(官名)の父を持ち、夫は著名医薬家・煉丹家、葛洪であります。彼女は医術に精通し、特に灸治に長じます、贅瘤を灸治に得意するとの評判で名を知られていました。広州で豊富に産出している「紅脚艾」(艾葉)を用いて灸治し、顕著な効果がありました。広州≪鮑姑祠記≫に、「鮑姑用越岡(広州中心部にある越秀山)天産之艾、以灸人身、灸贅瘤、一灼即除。歴年久、而所恵多」と記載しています。その艾葉は、「鮑姑艾」と呼ばれました。彼女のある部分灸治経験は、夫の葛洪が著した≪肘后方≫に収録されています。鮑姑の灸法で腫瘍を治療するという治療法は、医学史上でも、最初の記載であります。彼女は、広東省各地(広州・恵州・恵陽・南海・博羅など)を回って、治療に当たりました。当地民衆に尊敬され、広州の「三元宮」内に、鮑姑殿を建てられ、碑記(碑に彫った文章)を建造されました。
「三元宮」内の鮑姑と葛洪の像↓
蔡尋真、李騰空
唐の時代の女名医です。両者とも身分の高い出身でした。蔡尋真は唐侍郎(官名)蔡某の娘で、李騰空の宰相の李林甫の娘です。二人は当時に蘆山(江西省北部名山)に入り、修道学医(修行する、医学を学ぶ)、済生救民(医療を行い人々を助ける)、人々によく知られ親しまれている美談として伝えられました。
張小娘子
宋の時代の外科医です。丸・散・膏・丹や湯薬を用いて癤瘡痈瘡を治療するだけでなく、外科手術も行いました。彼女の医術は、名前を残さない老人からの伝授と言われました。
その老人に≪痈疽異方≫という外科専門書を贈られました。
将氏、方氏
明の時代、安徽省人です。二人の関係は姑と嫁であり、将氏は姑で、方氏嫁です。家業の小児科医院を継承し、驚風、癲癇、疳など小児疾病を治療しました。「神医国手」と称賛されました。
談允賢
明の時代、江蘇省人です。祖父母は医者(中医師)であった為、15歳で主要の医学経典・書籍を読み終わり、祖父母の仕事を手伝います。談允賢は、婦人科によく通じ、59歳の時、祖父母から伝授された医術と、自己の臨床経験を纏めて、≪女医雑言≫を編集し、後世に残しました。
曾懿
清の末期、四川省人です。医学文献―≪古歓室≫の作者です。≪古歓室≫は、≪女学篇≫、≪医学篇≫、≪詩詞篇≫から構成されます。54歳(1906年)の曾懿は、≪医学篇≫を書きました。≪医学篇≫は2冊があり、上冊・下冊は、それぞれ4巻から構成されます。
上冊
第1巻:脈論、舌色論、温病、傷風、傷寒論
第2巻:雑病転入中焦治法
第3巻:温病転入下焦治法
第4巻:傷寒治法
下冊
第1巻:雑病
第2巻:婦人科
第3巻:小児科
第4巻:外科
封建社会で生きた女性としては、思想解放の曾懿が、少数人物でした。