こんにちは、周です。今回は中国最初の医学協会についての話です。
中国最初の医学協会は、明代・穆宗隆慶二年(1568年)の
「一体堂宅仁医会」であります。
徐春甫が編纂した≪医学入門捷径六書≫の「一体堂宅仁医会録」に、こう記載されています:順天府(現在の北京)の医家である徐春甫らは、「一体堂宅仁医会」という組織を作りました。高岩が序言に、「各地からの京城(首都)で医家を集めて、宅仁之会を発足しました。」と書いてあります。「一体堂宅仁医会」に入会者は46名がありました。会員は発起人の一人で・創始人でもある徐春甫、汪宦(≪医学質疑≫、≪統属診法≫の著者)、巴応奎(≪傷寒明理補論≫の著者)、支秉中(≪痘疹玄机≫の著者)らが構成されました。北京の名医でいれば、各地方(江蘇・河北・湖北・四川・福建各省)から北京に遊学中の者も居ました、皆は当時の名医でした。
その「宅仁医会」の設立趣旨は以下の四項であります。
1、医学知識の探求と研鑽 例えば、≪内経≫、張仲景及び他の医家の学説の研究
2、医療技能の交流と向上
3、医徳の修養
4、医療過誤の撲滅と医者同士の相互扶助
医徳の修養については、会員に「深戒徇私謀利之弊」を要求されました。医療過誤の撲滅と医者同士の相互扶助の点では、会員に「善相助、過相規、患難相済」を求められました。また、22条の会則を定めましたー誠意・明理・格致・審証・規鋻・恒徳・力学・講学・弁脈・処方・存心・体仁・忘利・自重・法天・医学之大・戒貪鄙・恤貧・自得・知人・医箴・避晦疾。
附:徐春甫の紹介です。
徐春甫(1520~1596年)は、字を汝元、号を東皐と称し、新安(安徽)人でありました。祖父・父を含め、数代続いて儒学者で、彼自身も幼少期から儒学を学んだが、病気がちであったため、医学に転身しました。内科・婦人科・小児科に精通し、その医術が優れていたため、治療を求めてくる患者は大勢居ました。また、その医名は朝廷にも聞こえ、太医院医官に任命されたこともありました。医者として診療に当たると同時に、著述にも勤しみ、長年をかけて、主な著書は≪古今医統≫、≪医学捷径≫(≪医学入門捷径六書≫≪医学指南捷径六書≫とも言う)があります。