こんにちは、周です。今回は金元四大家の紹介ですーその4。
朱丹溪――相火論
朱丹溪(1281~1358年)は、名を震亨、字を彦修と称し、生涯丹溪周辺に住んでいたので、丹溪翁と尊称されました。金代の金華(浙江省義烏県)人であります。「陽常有余、陰常不足」(陽は常に余りあり、陰は常に不足す)と考え、その観点から「陰虚相火病機学説」を打ち立てました。滋陰降火法をよく用いたが、同時に辨証論治を重視し、雑病の治療においても独特の見解をまとめ、後世の人々を啓発しました。彼の一門は、後世より「滋陰派」と称されています。
朱丹溪は、幼少より勉強が好きで、早くから科挙試験を受ける準備を始め、30歳で医の道を志しました。≪素問≫、≪難経≫などの古典医籍をことごとく研究しました。5年間を学習した後、臨証できるといわれています。良医を求め、各地を遍歴しました。呉中(江蘇省呉県)、南除(江蘇丹徒)、建業(南京)などの地を訪ねまわり、ついに武陵(杭州)において、劉完素の孫弟子にあたる名医ー羅知悌より教えを受けることになりました。時に44歳でありました。同時に張縦正や李杲の学説も学び、三家(者)学説の長所を吸収して、自己の心得を融合し、独特の見解(養陰の重要性を強調した)を提起し、「滋陰派」学説を創立しました。
滋陰降火法においての臨床応用でも、朱氏は非常に豊富な経験を積みました。滋陰降火法に造詣が深いものがあったばかりではなく、温補法にも長けていました。例えば、黄芪附子湯、黄芪白朮湯を用いて、鄭兄の病・補血温血法を用いて、東陽傅文の病・峻補法を用いて、徐婦の難産を治療しました。
朱丹溪の著書も非常に多いです。以下は代表的著書であります。
≪格致余論≫(1347年)1巻
≪丹渓心法≫(1347年)全書計5巻、分100門。前有12経見証6篇、後附≪丹渓翁転≫
≪金匱鈎玄≫ (1358年)3巻
≪医学発明≫1巻
≪本草衍義補遺≫1巻
≪局方発揮≫1巻
≪素問糾略≫1巻