霊枢・大惑論第八十④
【原文】黄帝曰:余疑其然①。余毎之東苑、未曾不惑、去之則復、余唯独爲東苑労神乎?何其異也②?岐伯曰:不然也。心有所喜、神有所惡、卒然相惑、則精気乱、視誤故惑③、神移乃復④。是故間者爲迷、甚者爲惑⑤。
【注釈】①余疑其然:私はその(岐伯が言った)道理に疑いがある。
②余毎之東苑、未曾不惑、去之則復、余唯独爲東苑労神乎?何其異也:私は東苑に行く度に、眩惑が発生しない時はない、離れるとまだ正常に戻る。それは、私が東苑に行く時だけ疲れるの?なんでこんな特殊な現象が現れるの?
③心有所喜、神有所惡、卒然相惑、則精気乱、視誤故惑:ある場所に行ったとき、心が喜んでいても、神(生命の活動)は適応できないことがあるので、こんな突如の内外不調和で精と神が乱れ、視覚上の錯覚が発生し、眩惑を感じる。「心有所喜、神有所惡」について幾つの解釈があるが、『類経・疾病類・八十一』の注釈に従います。なお、「卒然相惑」は「卒然相感」の誤りです。
④神移乃復:一旦元気が回復できたら、正常に戻れる。
⑤間者爲迷、甚者爲惑:(これらの現象を)軽いものを「迷」、酷いものを「惑」と称する。「間」は軽い、浅いという意味です。『類経・疾病類・八十一』に「間は甚だしくないことである。それでも迷う、酷くなると、当然惑う。」との注釈がありました。
【説明】
本節はさらに「惑う」が発生する機理を説明した。「迷・惑」は精神上の疲れによるものだけではなく、「心有所喜、神有所惡」の時にも発生する。「惑」が発生する根本的な原因は「神」が静まらせてないことです。そのため、養生にも病を治療にも先ず「神気」を重視するべきです。
『霊枢集注・巻九』には、「この章は九針の道を総括した。責めは得神である。精気神が存在すれば、天下に惑わない。故に黄帝がこの質問をして、岐伯に精気神を論じさせた。」と説明した。なお、『宝命全形論』には、「凡そ体を針刺する時、必ず先に其の神を治療……針刺治療の要点は、(病情)を診察し、神を存し、志を安定し、その変化に適応し、千変万化に万全な対応ができるのである。これを後世に伝え、最後まで消えうせない。修身養生にも、治国治民にも、全て精気神三者を調養するべきである」との記載がありました。
(李)