こんにちは、周です。今回は故事「戮謖以謝衆」(泣いて馬謖を斬る)「孔明揮涙斬馬謖」(涙を揮いて馬謖を斬る)を紹介します。
『三国志』に関わる故事、名言の中でも最も有名なものの一つです。信頼している部下を、規律の厳正を守るために私情を排して処分することを意味します。
出典は『蜀書・諸葛亮伝』です。
建興六年(二二八年)、国力を蓄えた蜀は、諸葛亮(孔明)の進言で北伐の軍を起こしました。総指揮は諸葛亮自身であり、出兵して祁山に向かいました。蜀にとってはこの重要な戦いであり、軍事的な要地・街亭の前線指揮官を命じられたのが、若き将軍・馬謖(一九〇~二二八)でありました。『三国志』には馬姓の武将が多数登場しますが、馬謖は襄陽郡宜城県の名門・馬一族の出身で、劉備の重臣である・名前は馬良という兄が居ます。弟の馬謖は才気すぐれ、兵術を得意としていたが、やや弁舌のみに頼りと、劉備は彼の欠点を熟知していたようで、諸葛亮に後事(決して馬謖を重用するな)を託しました。
しかし、諸葛亮は、彼を自分の後継者として信頼していました。劉備の死後、しばしば出兵して魏と戦ったが、馬謖は彼の参謀に抜擢されていました。建興六年、孔明は出兵して祁山に向かって魏を討ちました。歴戦の将、魏延や呉壱らが従軍しました。人々は、彼らのだれかを先鋒としたらよかろうと論じたが、孔明は人々の考え方と相違して馬謖に命じて大軍を率いて先鋒とし、魏将張郃と街亭で戦わせました。ところが馬謖は諸葛亮の主旨を反して布陣したため張郃に破られて、部下の兵卒は四散しました。諸葛亮は前進基地を失い、蜀の漢中へ退却しました。馬謖は牢に入れられ死にました(馬謖は諸葛亮に処刑された、との説がありました)。孔明は彼のために涙を流しました。・・・・・・謖は三十九歳でした。
『三国志』に、こう記しています:
建興六年、亮出軍向祁山。時有宿将魏延呉壱等、論者皆言以為宜令為先鋒。而亮違衆抜謖、統大衆在与魏将張郃戦於街亮、為郃所破。士卒離散。亮進無所拠退軍還漢中。謖下獄物故。亮為之流涕。・・・・・・謖年三十九。