こんにちは、周です。今回は医家・皇甫謐の紹介です。
中国に現存する・最も古い針灸学専門書である《針灸甲乙経》の著者として知られる皇甫謐(215~282年)は、幼名を静、字を土安と称し、自ら玄妟先生と号しました。安定朝那(甘粛省霊台)の人ですが、後に叔父の養子になって新安(河南省澠池県東)に移りました。東漢の名門豪族で、曾祖父の輩などは朝廷の大尉(官職)でありますが、没落して家は貧しく、少年時代の彼は全く学問を好まなかったです。しかし、叔母の懇ろに教さとしもあって、20歳を過ぎてから発憤図強(意気込んで努力しようと決心する)、一転して寝食を忘れて読書に励む毎日となりました。村人は、このような皇甫謐の姿を見て、「書淫」と称しました。
皇甫謐は、晋代朝廷に官吏として奉仕することを好まず、度重なる征召(官職を授ける)を固く断りました。皇帝に上書して、医学の重要性を指摘し、自分は万難を排除して医学を修める決意であることを述べました。皇帝のところから沢山の医書を借り、学問を研鑽して有名な学者になりました。
皇甫謐の性格は沈静寡欲(沈静して欲が少ない)で、読書する毎日でした。もともと身体があまり丈夫でなかった上に、疲労を蓄積させ、42歳に風痺(痺証の一種、リウマチ様な遊走性関節痛)を患い、半身不随となりましたが、医学を修する志向は衰えず、《素問》《針経》《難経》《明堂穴針灸治要》(すでに散逸して伝えられてない)を閲読し、それらを基礎とし、張仲景や王叔和など医家の経験を参考し、259年に《針灸甲乙経》を書き上げました。
《針灸甲乙経》は、理論的に整備された医学書であり、内容も実用性がありますので、針灸学の経典文献の一つとして、今まで中国針灸医学史上、重要な位置を占めています。また、海外(日本、朝鮮)にも針灸学の教材として使われます。