古代における東西(漢方・中医、西洋医学)両医学の世界にはそれぞれ異なるシンボルマークがありました。中医学では「陰陽魚」が、ヨーロッパのいくつかの国では「蟠曲霊蛇(蛇の絡みついた)」杖(神杖)のようなシンボルでした。
陰陽魚は学問的には太極図と言います。この図柄は黒と白が互いにめぐりあう格好をしており、中央はS字曲線で分割され、その両側には二匹・互いに逆むきになった小魚があります。中国の文化史上、太極図には五層太極図と陰陽魚という二つの系列があります。「五層太極図」は北宋・周敦頤の『太極図説』に最初にあらわれます。「陰陽魚太極図」の歴史はそれより遥かに古いものです。最近、中国の湖北省随州市擂鼓墩で太極図のようなものを刻んだ石器が発見されましたが、鑑定によると、これは太極図の原始的なひな形で、今から五千年あまり前の神農時代の遺物であることがわかりました。この図は現在随州市の文物管理所に保存されています。太極図は古代の哲学者、道家、丹家などが陰陽理論を説明するために使う模式図でした。
東漢・魏伯陽が著した《周易参同契》の中に
「水火医廊図」、「地承天気図」、「月受日光図」、「一昇一降図」、「陰陽交映図」などの諸図が見られ、これらの図象は代を重ねるにつれて絶えず洗練され、抽象的になりました。そして、最後には高度な包括性を示す「陰陽魚太極図」にまで昇華されたのです。これは古代人が陰陽の易学理論や宇宙のひな型としての世界に対する認識を包括的に表したものです。太極図は最も外側にある円を太極ないし無極とすることで、宇宙万物が「元気」から化生(生じた)したものであると同時に、絶えず運動・循環するものであることを表しています。つまり、円内の左側にあって頭を上向きにしている魚が「陽」で、右側の、頭を下へ向けている黒い魚が「陰」です。陰陽魚の中には、また小さな円があってそれが魚の目になっています。これは「陽中有陰、陰中有陽、左昇右降」(陽の中に陰がある、陰の中に陽があり、左は上昇、右は下降である)ということをはっきりと示しているのです。また、陰と陽の二匹の魚はS字曲線でへだてられていますが、陰の中に陽があるのは、陰と陽の平衡は刃物で切って二つの半円にしたような対称図形ではなく、また、天秤のように均りあったまま、じっとそこにあるのでもなくて、陰と陽の、一方衰退すると、他方が増大するような、互いに消長を重ねるといったぐあいに消長平衡(変化して平衡)状態が保っているのを寓意的に示したものなのです。「陰陽魚太極図」は陰陽学説の理論を平面的に模式化した図で、中華民族の叡智の結晶です。この図は南宋時代にはすでに一定の形を整えていました。それが現代に至る伝承の過程で東西の太極図(陰陽魚が左右に並存している図)と南北の太極図(陰陽魚が上下に住み分けている図)の二つの様式が存在するようになりましたが、前者の方を多く見かけます。古代の道家、丹家、医家ないし儒家はみな太極図を志徽(旗じる)しにしており、そのため道観(道教寺院)、道服、経学図書や宋代以後の孔子廟の梁には、この印が彫られているのです。
1937年、量子論に対する緻密で周到な解釈ですでに定評のあったデンマークの物理学者ボーア(Niels Bohr :1885~1962年)が訪中した際、彼は両極が対峙しているという太極図の概念に驚き、深い感銘を受けました。そして、自分の説く相補性原理をさかのぼって検討してみると中国の哲学思想と関連のあることを知り、それ以来、中国の伝統文化に対し一貫して強い興味を抱くようになりました。ボーアがノーベル物理学賞を受け、爵位を授与されるにおよんで、族徽(一族の紋章)を作る必要にせまられたとき、彼はまず中国の太極図を選び、対立相補関係を表すものとしました。なお、図形には直筆で銘文を書きつけました。ボーアは古代東方の叡智と現代西洋科学との間には深い共通認識や相応じた見方があると考えたのです。太極図は又も科学界の注目するところとなりました。
中医学は陰陽五行説を理論的な基礎にしています。また、自然にも太極図がシンボルマークとして適用されていますが、医薬業界では多くの場合、「陰陽魚」という名称が使われています。医薬の書物では太極図が常用の「印」となっていますし、漢方薬局の入り口の両側にある看板には、数珠つなぎになった膏薬(貼り薬)、丸薬(飲み薬)あるいは馨(中国古代の打楽器。吊るして鳴らすもの)の下に一匹の魚がぶら下がっているところからして、これは魚が中国語ではyu(「ゆ」)という発音であることから、その発音(同じ発音)を「治癒(ちゆ)」の癒(ゆ)に通わせているに違いありません。また、左右の二匹の魚は合わさって一つの太極になっていますが、目は閉じずに見開いたままです。これもまた中医師(漢方の医師)や薬局の寓意なのです。彼らは、まるで魚のように、昼夜を問わず、いつも目をカッと見開いて医療をおこない、投薬をしては病人に尽くしているからです。こうして、陰陽魚と医徳(医者としてのモラル)の観念を関連させることによって医薬の志徽(シンボルマーク)が作り出されました。それはさらに富の象徴ともなったのです。